菅原道真 すがわらのみちざね 承和十二〜延喜三(845-903) 通称:菅家・菅贈太政大臣

参議文章博士是善の子。は伴氏。
貞観四年(862)、文章生。同九年正月、文章得業生。同十二年、方略試に及第。玄蕃助・少内記を経て、同十四年、存問渤海使を拝命。兵部少輔・民部少輔を経て、元慶元年(877)、式部少輔。さらに文章博士を兼ね、当代随一の学者として名実を兼ね備えた。
元慶八年(884)、太政大臣の職掌の有無について下問され、職掌無しとの意見書を提出するが、これは太政大臣藤原基経に国政を委ねようとしていた光孝天皇の不興を買ったという。この事件の影響に学界の嫉視も重なって、仁和二年(886)正月、文章博士・式部少輔を解任され、讃岐守に左遷される。赴任中、阿衡の議が起こったのを機に急遽帰京し、橘朝臣広相を擁護する意見書を基経に提出した。
寛平二年(890)帰京。以後は宇多天皇の信任を得、順調に昇進。蔵人頭・式部少輔・左京大夫などを歴任し、同三年、参議に就任。左大弁・春宮亮などを兼任した。寛平四年、『類聚国史』を撰す。寛平六年八月、遣唐大使に任命されるが、唐の疲弊などを理由に遣唐使停止の議を上奏、結果遣唐使は廃止されるに至った。同年十月、中納言。同九年六月、権大納言兼右大将。同年七月、宇多天皇は敦仁親王に譲位して醍醐天皇の御代となる。この時宇多は奏請・宣行はすべて藤原時平と道真の二人に諮るよう新天皇に命じた。昌泰元年(898)十月、宇多上皇の吉野宮滝行幸に供奉。この時詠んだ歌が古今集に残る。昌泰二年(899)二月、時平の左大臣昇格に伴い右大臣に就任。翌年、三善清行より辞職の勧告を受ける。昌泰四年正月、従二位に叙せられるが、その直後、突如大宰権帥に左降。道真の女子が嫁いでいた斉世親王(醍醐天皇の弟宮)を天皇に擁立しようと企てたとの嫌疑であった。宇多上皇の弁護も空しく、同年二月、筑紫へ出立。年少の子女のみ同行を許されたという。二年後の延喜三年(903)二月、大宰府にて死去し、安楽寺(現在の大宰府天満宮)に埋葬された。死後、本官に復され、太政大臣を追贈される。また怨霊として怖れられ、永延元年(987)、北野天満宮天神の神号が贈られた。
漢詩文集に『菅家文草』『菅家後集』があり、和歌の集も『菅家御集』ほか数多く伝存するが、偽作を少なからず含むと見られている。寛平五年(893)、和歌・漢詩から成る『新撰万葉集』を撰進。また同じ頃、数十巻の万葉集(綜輯本)を編纂整理し、宇多天皇に奉じた(道真を現存万葉集の編者とする説がある)。古今集初出。勅撰入集は(北野天神としての御歌を含めると)三十五首。

  3首  3首 羇旅 3首  20首 計29首

流され侍りける時、家の梅の花を見侍りて

こちふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな(拾遺1006)

【通釈】東風が吹いたら、匂いを配所の私のもとまで寄越してくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、春であることを忘れるなよ。

【補記】昌泰四年(901)、大宰権帥に左遷され、家を発つ時の歌として伝承される。拾遺集巻十六、雑春。『大鏡』藤原時平伝を始め多くの史書・説話集等に引かれて名高い。

【他出】拾遺抄、大鏡、古来風躰抄、定家八代抄、平家物語、太平記、十訓抄、古今著聞集

【主な派生歌】
ながめつるけふは昔になりぬとも軒端の梅はわれを忘るな(*式子内親王)
ふりはつる身にこそ待たね桜花うゑおく宿の春なわすれそ藤原定家)
出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな(*源実朝)
うす氷けふとけそめつ東風ふかば池のこころも春をしれとや(飛鳥井雅親)

家より遠き所にまかる時、前栽の桜の花に結ひつけ侍りける

さくら花ぬしをわすれぬものならば吹き来む風に言伝てはせよ(後撰57)

【通釈】桜の花よ、主人を忘れないならば、配所まで吹いて来る風に言伝をしてくれよ。

【補記】「遠き所」は大宰府を指す。これも京の家を発つ時の歌。

帰雁を

雁がねの秋なくことはことわりぞかへる春さへ何かかなしき(続後撰57)

【通釈】雁が秋に啼くのは尤もだ。ところが故郷に帰る春になっても啼いているのは何が悲しいというのか。

【補記】秋に飛来して春には故国へ帰る雁と、遠地に左遷されたまま帰京する望みのない我が身を対比している。続後撰集巻二(春中)巻頭。

【参考】「聞旅雁」(菅家後集)
我為遷客汝来賓 我は遷客たり 汝は来賓
共是蕭々旅漂身 共にこれ蕭々として旅に漂へる身なり
欹枕思量帰去日 枕を欹てて帰り去らむ日を思量するに
我知何歳汝明春 我は何れの歳か知らむ 汝は明春

萩を

まどろまずねをのみぞなく萩の花色めく秋はすぎにしものを(続後撰1088)

【通釈】一睡もせずに泣いてばかりいる。都へ帰れぬまま、萩の花が色美しく咲く秋は過ぎてしまったのだなあ。

【補記】巻十六雑上、秋雑歌。

題しらず

草葉には玉とみえつつわび人の袖の涙の秋のしら露(新古461)

【通釈】草の葉に置けば玉と見えながら、失意にうちひしがれた私の袖の上では涙である、秋の白露よ。

【補記】同じ水滴が、葉の上と袖の上では別物。

同じ御時せられける菊合に、州浜をつくりて菊の花植ゑたりけるに加へたりける歌。吹上の浜のかたに菊植ゑたりけるをよめる

秋風の吹き上げにたてる白菊は花かあらぬか浪のよするか(古今272)

【通釈】秋風が吹き上げる、吹上の浜に立っている白菊は、花なのかそうでないのか。白波が寄せているのか。

【補記】「同じ御時」とは、寛平御時、すなわち宇多天皇の御代(887-897)。菊の花の優劣を競った遊び「菊合」において、吹上の浜をかたどった州浜に植えられた白菊を波かと見立てた。「吹上の浜」は紀伊国の歌枕、紀ノ川河口付近。

【他出】寛平御時菊合、古今和歌六帖、和歌体十種、詠歌大概、定家八代抄、桐火桶

【主な派生歌】
霞ゐる高間の山の白雲は花かあらぬかかへる旅人(式子内親王[新勅撰])
沖つ風吹上の浜にたつ千鳥いさしら浪の花かあらぬか(藤原家隆)
ゆゑもなし心にぞとふ春きての我が物おもひよ花かあらぬか(木下長嘯子)

羇旅

朱雀院の奈良におはしましたりける時に、たむけ山にてよめる

このたびは(ぬさ)もとりあへず手向山(たむけやま)もみぢの錦神のまにまに(古今420)

【通釈】このたびの旅は、出発の慌ただしさに、御幣の用意もできかねました。ところが手向山に来ますと木々の紅葉はさながら錦を織り成したよう。代りにこの紅葉を御幣として捧げますので、どうぞ神の御心のままにお受け下さい。

【語釈】◇朱雀院 亭子院に同じ。宇多上皇をさす。◇手向山 手向を捧げるべき山(タムケが転じてトウゲとなった)。この歌では山城(京都府)・大和(奈良県)国境の奈良山の峠を指すのであろう。◇このたびは 「たび」は度・旅の掛詞。◇幣 神への捧げ物。旅に出る時、紙または絹を細かく切ったものを袋に入れて持参し、道祖神の前でまき散らした。◇とりあへず 出発の慌ただしさで、用意する暇がなかったということ。「供奉の時なれば私をかへり見ぬ義にて、神に幣帛もささげぬと也」(幽斎抄)との説もある。◇もみぢの錦 紅葉を錦織物に見立てる。◇神のまにまに 幣を受け取り、(旅の無事を祈る)願いを叶えてくれるかどうかは、神の御心のままにして下さい、程の意。

【補記】古今集羇旅。昌泰元年(898)十月、宇多上皇の吉野宮滝御幸に従駕しての作。『定家八代抄』には詞書「亭子院吉野の宮滝御覧じにおはしましける御ともにつかうまつりて、手向山をこゆとて」とある。

手向山八幡宮

【ゆかりの地】手向山八幡宮 奈良県奈良市雑司町。東大寺から春日大社へ向かう途中にある。天平感宝元年(749)、聖武天皇が宇佐八幡宮より勧進した。もとは大仏殿に近い鏡池の東側にあり、現在地に移ったのは鎌倉時代と言う。「菅公腰掛けの石」と称する石があり、百人一首の歌はこの社で詠まれたとの伝もある。

【他出】新撰和歌、古今和歌六帖、和歌体十種、古来風躰抄、定家十体(長高様)、定家八代抄、詠歌大概、八代集秀逸、別本八代集秀逸(後鳥羽院家隆撰)、百人一首

【主な派生歌】
秋の山紅葉をぬさとたむくればすむ我さへぞたび心ちする(紀貫之[古今])
道しらばたづねもゆかむもみぢ葉を幣とたむけて秋は去にけり(*凡河内躬恒[古今])
一こゑは手向の山のほととぎす幣もとりあへずあくる夜はかな(藤原家隆)
手向してかひこそなけれ神な月もみぢはぬさと散りまがへども(藤原定家)
秋萩のゆくての錦これもまたぬさもとりあへぬ手向にぞをる(〃)
たつ嵐いづれの神に手向山花の錦のかたもさだめず(〃)
もみぢばを風にまかする手向山ぬさもとりあへず秋はいぬめり(藤原信実[続後撰])
みそぎするぬさもとりあへず六月の空にしられぬ秋風ぞふく(西園寺公経[続拾遺])
ゆふだたみ手向の山の桜花ぬさもとりあへず春風ぞ吹く(九条道家[新千載])
そめもあへずしぐるるままにたむけ山紅葉をぬさと秋風ぞ吹く(藤原為家[続後撰])
風吹けばさくらの宮の神垣にぬさも取りあへず花や散るらむ(頓阿)
神しうけばぬさもとりあへず手向けおく此ことのはも色や見えまし(正徹)
とりあへず紅葉をぬさと手向山神のこころを神やうけけむ(契沖)
しかりとてなみだの袖やきりたたむむすぶの神にぬさもとりあへず(加納諸平)

法皇、宮の滝といふ所御覧じける、御供にて

水ひきの白糸はへておる(はた)は旅の衣にたちやかさねむ(後撰1356)

【通釈】滝の白糸を伸ばして織った美しい布は、旅の衣裳として裁って縫い、重ね着しましょう。

【補記】前の歌と同じ時、宇多法皇の吉野宮滝御幸にお供しての作。「水ひき」は「麻などを水に浸して皮を剥ぐこと。転じて、麻糸」(広辞苑第五版)。滝が水を引くように流れていることに掛けて言う。

道まかりけるついでに、ひぐらしの山をまかり侍りて

ひぐらしの山路をくらみ小夜ふけて()の末ごとに紅葉てらせる(後撰1357)

【通釈】日の暮れるまで歩き続けたひぐらしの山道――その名の通り暗いせいで、夜が更け月が出てからは、かえって梢ごとに紅葉が照り輝いて見える。

【補記】「ひぐらしの山」は所在未詳。前の歌と同じ時の作なら、吉野の山か。「日暮らし」「暗し」の両義が掛かる。

亭子のみかどにきこえさせ給ふ

ながれゆく我は水屑(みくづ)となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ(大鏡)

【通釈】配所へ流されてゆく私は、もはや水屑同然に落ちぶれてしまいました。我が君よ、柵(しがらみ)となってこの水屑をおとめ下さい。

【補記】大宰府へ旅立つ時、宇多法皇に奉った歌という。「水屑」は水中の塵芥。「しがらみ」は水流を塞き止める柵。

【主な派生歌】
君が代をたえせずてらせ五十鈴河われはみくづとしづみはつとも(宗良親王)

流され侍りける道にて詠み侍りける

(あま)つ星道も宿りもありながら空にうきても思ほゆるかな(拾遺479)

【通釈】天を渡って行く星のように、道も宿もあるとは言え、空に浮かんでいるかのような不安な思いがすることだ。

【補記】星に「道も宿りもある」とは、天道と星宿(星座)のことを言う。

【主な派生歌】
旅の空うきていでにし野山にて道もやどりも月ぞともなふ(藤原為家)
天つ空みちもやどりもしら雲の明くるもしらで月を見るかな(順徳院)
旅の空うきたつ雲やわれならん道もやどりも嵐ふく比(*宗良親王)

流され侍りける時

あめの下のがるる人のなければや着てし濡衣ひるよしもなき(拾遺1216)

【通釈】雨の降りしきるこの天下では、逃れる人がいないから、着ていた濡れ衣が乾くわけもないのだろうか。

【補記】「あめの下」に「雨の下」を掛ける。「濡衣(ぬれぎぬ)」で無実の罪を暗示。拾遺集では雑恋の部に載せる。『大鏡』では第二句「かわけるほどの」。

流され侍りて後、いひおこせて侍りける

君がすむ宿のこずゑのゆくゆくと隠るるまでにかへりみしやは(拾遺351)

【通釈】あなたの住む宿の木々の梢が、私の遠ざかって行くにつれ、次第に隠れて見えなくなるまで、何度も振り返って見たことだ。

【補記】『大鏡』によれば、山崎から船に乗り、都が遠ざかって行くのを心細く思って正妻に贈った歌。拾遺集では巻六別(わかれ)の部に載せる。

【他出】金玉集、和歌体十種、和歌十体、定家八代抄

かくて筑紫におはしつきて、ものをあはれに心ぼそくおぼさるる夕、をちかたに所々けぶりたつを御覧じて

夕されば野にも山にも立つけぶり歎きよりこそ燃えまさりけれ(大鏡)

【通釈】夕方になると、あちこちの野にも山にも立ちのぼる煙――それは、私の嘆きという木を焚き添えることで、一層ひどく燃え立つのだ。

【補記】筑紫に着いて後に詠んだ歌として伝わる。「なげき」に「木」を掛ける。

【主な派生歌】
みちのべの野原の柳したもえぬあはれ歎の煙くらべに(藤原定家)

鶯を

谷ふかみ春のひかりのおそければ雪につつめる鶯の声(新古1441)

【通釈】谷が深いので春の光が射し込むのも遅いため、いまだ雪の中に籠っている鶯の声よ。

【補記】「春のひかり」に主君の恩、「雪につつめる鶯」に讒言により失脚した賢者(道真)を寓喩。和漢朗詠集「鶯未出兮、遺賢在谷」に由る(八代集抄)。

【主な派生歌】
猶さゆる雪につつめるこゑながら梅がえわきてうぐひすぞ鳴く(後鳥羽院)

ふる雪に色まどはせる梅の花鶯のみやわきてしのばむ(新古1442)

【通釈】降り積もる雪と色を見紛うばかりに白い梅の花――鶯だけは見分けて賞美するのだろう。

【補記】梅の花に君子を、鶯に賢者を寓喩か(八代集抄)。

【参考歌】紀貫之「続後拾遺集」
鶯のなくはしるきに梅の花色まがへとや雪のふるらむ

柳を

道の辺の朽ち木の柳春くればあはれ昔と偲ばれぞする(新古1449)

【通釈】路傍の枯れ朽ちた柳の木――春になれば、ああ昔は美しく芽吹いたのにと、懐かしまれることだ。

【補記】左遷された我が身を朽木の柳に譬え、過去の栄華を追想する。

【他出】新撰朗詠集、定家十体(幽玄様)、定家八代抄、和漢兼作集

【主な派生歌】
道の辺の野原の柳したもえぬあはれ歎きの煙くらべに(藤原定家)
われのみやさてもふりなむ道のべの朽ち木のやなぎ春めきにけり(藤原秀能)
昔おもふ朽ち木の柳なにゆゑにみどりの髪をけづるなるらむ(土御門院)
故郷の朽ち木の柳冬くればしぐるる色もしのばれぞする(順徳院)
ふるさとの朽ち木の柳いにしへの名ごりは我もあるかひぞなき(飛鳥井雅有[続拾遺])
をかべなる朽ち木の柳さすが猶春とばかりの色は見えけり(伏見院)

あしびきのこなたかなたに道はあれど都へいざといふ人ぞなき(新古1690)

【通釈】山のあちらこちらに道はあるのに、さあ都へと言ってくれる人はいない。

【補記】「あしびき」は山の枕詞だが、ここでは山の意で用いる。新古今集巻十八雑歌下ではこの歌を巻頭とし、筑紫における道真詠が十二首続く。

【他出】和歌一字抄、定家十体(拉鬼様)、定家八代抄、題林愚抄

【主な派生歌】
夢枕むすぶ契りのはかなきにみやこへいざといかでさそはん(霊元院)
さくら花みやこへいざといふ人を野山の末にまちやわびけむ(橘千蔭)
御涙の外なかりけむ誰ひとり都へいざといはぬあけくれ(橘曙覧)

天の原あかねさし出づる光にはいづれの沼かさえのこるべき(新古1691)

【通釈】大空を茜色に染めて射し始める春の陽光に当たれば、どの沼とて氷ったまま残っているものだろうか。

【補記】春の光は天皇の御恵みを暗示している。

月ごとにながると思ひしますかがみ西の海にもとまらざりけり(新古1692)

【通釈】月が昇るたびに西へ流れて行くと思っていた真澄鏡よ――しかし西の海に沈んでも、そこに止まっているのではなかった。再び東へ廻って行くのだ。西国に留まったまま、都へ帰ることの叶わぬ私と違って。

【補記】「ますかがみ」は月を鏡に喩えて言うか。「西の海」は九州の海。また西海道、すなわち九州そのものを指す。

霧たちて照る日のもとは見えずとも身はまどはれじ寄る辺ありやと(新古1694)

【通釈】霧が立ちこめて、日が射し昇る方向の都は見えないとしても、我が身は迷わされまい。拠り所はあるかどうかと心乱して。

【補記】「日のもと」は太陽が昇る始まりの所、ここでは大宰府から見て東方に当る都を指している。「寄る辺」はすなわち朝廷であり、大君であろう。

花とちり玉とみえつつあざむけば雪ふる里ぞ夢に見えける(新古1695)

【通釈】筑紫でもやはり雪は花のように舞い散り、玉石のように庭に敷く――そうして私の目をあざむくので、雪の降る故郷が心にかかり、夢にまで見えたことだ。

【補記】「ふる里」は京を指す。「ふる」に「降る」を掛けている。

老いぬとて松はみどりぞまさりける我が黒髪の雪のさむさに(新古1696)

【通釈】老いたとて松はいっそう緑の色を増していることだ。私の黒髪には雪のようなものが混じって寒々としているし、季節は雪の降る寒さなのに。

【補記】老松の緑の瑞々しさに比し、配流地で衰えてゆく我が身。

筑紫にも紫おふる野辺はあれど無き名かなしぶ人ぞきこえぬ(新古1697)

【通釈】筑紫にも紫草の生える野辺はあるけれども、私の「無き名」という菜――無実の罪を悲しむ人の声は聞えないことだ。

【補記】下記本歌より、武蔵野なら「紫のゆかり」として全ての草を哀れむだろうに、といった恨みを含む。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る

かるかやの関守にのみ見えつるは人もゆるさぬ道べなりけり(新古1698)

【通釈】誰もが刈萱の関の番人に見えたのは、配流の身ゆえ、人目が厳しい道を来たからなのだ。

【補記】「かるかや(刈萱)の関」は大宰府の近くにあったという関。

海ならずたたへる水の底までにきよき心は月ぞてらさむ(新古1699)

【通釈】月は、どんなに深く湛えた水の底まで照らすけれども、海よりも深く一点の濁りもない私の心は月が照らし出し、天が照覧して下さるだろう。

かささぎ

彦星のゆきあひを待つかささぎの()わたる橋を我にかさなむ(新古1700)

【通釈】彦星が逢瀬を待つという鵲の渡す橋を、私に貸してほしい。それを渡って都の妻に逢いたい。

【補記】七夕の夜、鵲が翼を並べて天の川に橋を架け、織女を渡すとの伝説を踏まえる。

流れ木と立つ白波と焼く塩といづれかからきわたつみの底(新古1701)

【通釈】渚に打ち寄せられる流木と、風に吹き立てられる白波と、海人に焼かれる塩と、どれが辛いだろうか。いや、海の底深く沈んだ我が身ほど辛いものはない。

【補記】「からき」には塩辛い意に苛酷の意が被さる。

神祇歌

松の色は西ふく風やそめつらむ海のみどりを初入(はつしほ)にして(続古今690)

【通釈】浜辺の松の青々とした色は、西風が染めたのだろうか。海の紺碧を初入の染料にして。

【補記】「はつしほ」は、「染色にあたって、初めて染め汁の中に入れひたすこと」(岩波古語辞典)。続古今集巻七神祇歌に「北野の御歌」として載せる。

【主な派生歌】
ふきそめぬ柳にしるき時つ風なびくを春の初しほにして(後西院)
草も木も西吹く風にくる秋のみにしむいろを初しほにして(姉小路基綱)


更新日:平成15年01月12日
最終更新日:平成18年09月02日