醍醐天皇 だいごてんのう 元慶九〜延長八(885-930) 諱:敦仁

宇多天皇の第一皇子。母は藤原高藤女、贈皇太后藤原胤子。藤原基経女穏子をはじめ、多数の女御・更衣をかかえ、保明親王・寛明親王(朱雀天皇)・成明親王(村上天皇)・源高明兼明親王など多数の皇子皇女をもうけた。系図
はじめ維城と称したが、仁和三年(887)、父が即位し、寛平元年(889)には親王宣下を蒙る。同五年四月、皇太子に立てられた。同九年(897)七月三日、元服し、同日、父帝より譲位を受けて践祚。同月十三日、即位。藤原時平菅原道真を左右大臣に置く。以後三十四年の長きにわたり在位。その治世は「延喜の治」と呼ばれ、後世聖代として仰がれた。延喜五年(905)、『古今集』撰集を宣下。延長八年(930)九月二十二日、皇太子寛明親王に譲位、同月二十九日、崩御。四十六歳。
諸記録に引用された逸文を編集した日記『延喜御記』がある。また女御更衣との贈答歌をおさめた歌集『延喜御集』がある。後撰集初出。勅撰入集四十三首。

飛香舎(ひぎやうしや)にて、藤花宴侍りけるに

かくてこそ見まくほしけれ万代をかけてにほへる藤浪の花(新古163)

【通釈】このような様でこそ見たいものだ。万代までも後の世に及んで美しく咲く藤の花房よ。

【語釈】◇飛香舎 宮中五舎のひとつ。皇后・女御などの在所。庭に藤があったので、藤壺とも言った。◇かくてこそ見まくほしけれ 「かく」の内容は、藤の花が「万代をかけて」美しく咲いている様。

【補記】延喜二年(902)三月二十日、藤原時平が主催した飛香舎(藤壺)の藤花の宴で詠んだ歌。醍醐天皇の女御藤原穏子(時平の同母妹)が入内した翌年のことで、「藤浪の花」に穏子を、ひいては藤原氏の栄を祝う心を籠めているのだろう。平安以後、公宴で和歌が行われた最初とされる。

題しらず

あしひきの山時鳥けふとてやあやめの草のねにたててなく(拾遺111)

【通釈】山ほととぎすは、今日が五月五日の節句だからとて、菖蒲の草の根、いや「音(ね)」に立てて鳴くのだろうか。

【語釈】◇あやめの草 菖蒲草。サトイモ科のショウブ。五月五日の節句に邪気を祓う草として軒端に葺いたり、根を薬にして飲んだりした。花の美しいアヤメ科のアヤメ・ハナショウブとは全く別種である。◇ねにたてて 音を響かせて、大きな声で。

【補記】時鳥は陰暦四月に忍び音で鳴き始め、五月になると本格的に鳴くようになる。そのことを節句の風物である菖蒲の「ね」に掛けて詠み、季節の節目を正しく刻む時鳥の声を称えている。

上のをのこども、菊合し侍りけるついでに

しぐれつつ枯れゆく野辺の花なれば霜のまがきににほふ色かな(新古621)

【通釈】時雨が降っては枯れてゆく野辺にあって、菊は唯一の花なので、霜が置いた垣根に美しく色映えている。

【補記】殿上人が菊合(菊の花を持ち寄って優劣を競う遊戯)を行った際に賜ったという歌。延喜十三年(913)十月十三日の内裏菊合の折か。

中将更衣に遣はしける

むらさきの色に心はあらねども深くぞ人を思ひそめつる(新古995)

【通釈】私の心は、紫草で染めた色でもないのに、あなたを深く思い初(そ)めて、恋の色に深く染まってしまったことだ。

【語釈】◇中将更衣 藤原伊衡の娘。更衣は天皇の寝所に仕えた女官。女御の次位。◇むらさきの色 紫草の根で染めた色。濃紫(こむらさき)、黒に近い紫色。◇思ひそめつる 思い始めてしまった。「そめ」は「染め」「初め」の掛詞。また「染め」は「深く」と共に「色」の縁語。

【参考歌】麻田陽春「万葉集」巻四
から人の衣そむといふ紫の心にしみて思ほゆるかも
  紀貫之「古今集」
別れてふことは色にもあらなくに心にしみてわびしかるらむ

まかりいでて御ふみつかはしたりければ     中将更衣

今日すぎば死なましものを夢にてもいづこをはかと君がとはまし

【通釈】今日もお便りがないまま過ぎましたら、私はもう死んでいたでしょう。そうなったら、夢の中ででも、どこを目当てにして私の墓を訪ねて下さったことでしょうか。

【補記】「中将更衣」は参議藤原伊衡女。宮を出て里に下っていた更衣のもとに天皇より御文があり、それに答えた歌。「はか」は目当て・墓の両義。

御返し

うつつにぞとふべかりける夢とのみ(まど)ひしほどや遥けかりけむ(後撰641)

【通釈】もっと早く現実にお便りするべきであったよ。夢の中でずっと迷っていたのが、余程遥かな辺りだったからだろうか、なかなか目覚めることができなかったのだ

【補記】中将更衣が「夢にても」と言ったのを承けて、「とふ」のが遅れたのはあなたが恋しいあまり夢の中で道に迷っていたからだ、と巧みに弁解した。

御門におはしましける中に、醍醐ときこえさせ給けるぞ、なまめかしき御門におはしましければ、よきむすめもちたまへる人は思ひきしろひ、御息所(みやすどころ)あまたなりたまひにける中に、時にものし給ひける、御いとまを、ただ一二日ときこえてまかで給ひにける、ほどへければ、御文に

人ごころたのみがたきは難波なる葦のうら葉のうらみつべきを(御集)

【通釈】人の心の頼み難いことは、まあ……。難波の蘆の裏葉ではないが、きっと恨み言を言ってしまいそうだよ。

【語釈】◇なまめかしき 人柄・容姿などが何とも言えぬ魅力を漂わせ、人を惹き付けるさま。◇思ひきしろひ 思い争って。◇みやすどころ 御息所。天皇や東宮の妃の敬称。のち更衣に限って用いられるようになる。◇難波なる葦のうら葉の 同音の繰り返しから「うらみ」を導く序詞。◇うらみつべきを 「つべき」は「そうなるのが確実である」との心をあらわす。

【補記】『延喜御集』巻頭。一日二日の暇乞いをして里に下ったまま内裏に戻らない妃に贈った歌。続古今集1280には「人ごとのたのみがたさに難波なる葦のうら葉のうらみつるかな」と載る。

近江更衣にたまはせける

はかなくも明けにけるかな朝露のおきてののちぞ消えまさりける(新古1171)

【通釈】あっけなく夜が明けてしまったことだ。朝露が葉の上に置いたあとすぐ消えてしまうように、朝起きた後、私の命は一層はかなく消えてしまいそうになった。

【語釈】◇おきて 「置きて」「起きて」の掛詞。また「おき」「消え」は「露」の縁語。

【補記】「近江更衣」源周子(嵯峨天皇の曾孫、右大弁源唱の娘)に贈った後朝の歌。周子の返しは、「朝露のおきつる空も思ほえず消えかへりつる心まどひに」。

題しらず

あかでのみふればなりけり逢はぬ夜も逢ふ夜も人をあはれとぞ思ふ(新勅撰822)

【通釈】いつも満ち足りない思いで過ごしてきたからなのだ。逢う夜も逢わない夜も、あの子を愛しく思うことよ。

【補記】『大和物語』百三十四段に見える歌。御曹司にこぎれいな童女がいて、天皇はこれを見初めて時々召したが、満ち足りない思いがして詠んだという歌。童女は幼な心にも天皇の歌に深く感銘し、思わず友達に洩らしてしまい、主人の御息所の知るところとなって宮中を追放されたという。

天暦のみかど生まれさせ給ひて御百日の夜、よみ侍りける  参議伊衡朝臣

日を年にこよひぞかふる今よりや百年(ももとせ)までの月影も見む

【通釈】ご生誕百日目の今宵は、日数を年の数に変えてお祝い申し上げます。されば今から百年後の月影まで、若宮はご覧になることでしょう。

【語釈】◇天暦のみかど 村上天皇。醍醐天皇の皇子。母は藤原穏子。◇御百日 誕生後百日目の祝。村上天皇の場合、延長四年(926)九月十二日。◇参議伊衡(これひら)朝臣 藤原氏。敏行の息子。娘は醍醐天皇の更衣。後撰集初出歌人。

御かへし

いはひつることだまならば百年(ももとせ)の後もつきせぬ月をこそ見め(玉葉1052)

【通釈】あなたの祝言が言霊として力を発揮するなら、百年の後も尽きることなく輝く月を見ることでしょう。

【補記】村上天皇が生れて百日の祝いの夜、参議の藤原伊衡が月に寄せて百年の長寿を言祝いだのに対し、感謝の意を表した歌。玉葉集巻七、賀歌。


公開日:平成12年05月26日
最終更新日:平成21年03月07日