富沢赤黄男 とみざわ・かきお(1902—1962)


 

本名=冨沢正三(とみざわ・しょうぞう)
明治35年7月14日—昭和37年3月7日 
享年59歳(春暁院正容自恭居士)
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園4区5側26番
 



俳人。愛媛県生。早稲田大学卒。昭和10年日野草城の『旗艦』に参加。新興俳句の代表的俳人。16年処女句集『天の狼』を刊行。戦後は『太陽系』創刊に参加、『詩歌殿』編集を経て、27年『薔薇』を主宰した。句集に『蛇の笛』『蛇の声』『黙示』などがある。



 



鶴は鳴く雲の炎に身を絞り

困憊の日輪をころがしてゐる傾斜

爛々と虎の眼に降る落葉

海昏るる黄金の魚を雲にのせ

蝶墜ちて大音響の結氷期                    

石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり

野の果ての虚しき空をおよぐ牛             

指ほそく抛物線を掴むかな

草二本だけ生えてゐる時間 



 

 暗喩を弄び、自分の意に沿わせようとする作句態度に、旧態の伝統を重視する人たちからは厳しい批判を浴びたという。が、しかし詩としての俳句表現を追求していった富沢赤黄男の歩いた道にはその後も、永田耕衣や、平畑静塔といった多くの後継者が現れてその精神は受け継がれていった。
 ダイナミックで色彩感に溢れた、幻想的あるいは象徴的な作品に初めて接したとき、私は恐ろしいほどの緊張感と、それにも増して圧倒的な孤独感を放つ光景に身震いを感じたのだった。画家の眼と詩人の気稟を持ち、「俳句は詩である」と標榜した俳人富沢赤黄男は、昭和37年3月7日、肺がんにより自宅療養中に死去。この年西東三鬼、飯田蛇笏も相次いで逝った。



 

 芝生墓地にある「冨澤赤黄男」と自署を刻された洋風墓。「冨澤」の「冨」は通常使われている「うかんむり」の「富」ではなかったことに疑問を持ったのだが、どうやら戸籍上は「冨」で、俳号として使う場合に「富」の字を当てているらしい。作家「富士正晴」の場合もそのようであった。
 ——同型の石碑が幾列、幾条にも建ち並んでいる。垣根を越して伊藤整の墓も幾筋か向こうに見える。台石の周りの落葉が小刻みに揺れながらまとわりついてくる。〈破れた木——墓は凝視する〉などと、虚無的な作品を詠った赤黄男の鎮まるところ、ここには絢爛な色彩もなく、冷気が清澄な音を立て、風はすぐに去った。
 ——〈爛々と虎の眼に降る落葉〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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