富田木歩 とみた・もっぽ(1897—1923)


 

本名=富田 一(とみた・はじめ)
明治30年4月14日—大正12年9月1日 
享年26歳(震外木歩信士)❖木歩忌 
東京都江戸川区平井1丁目25–32 最勝寺(天台宗)



俳人。東京生。2歳の時、高熱のため両足が麻痺、歩行不能、肺結核、貧困、無学歴の四重苦の生涯がはじまった。やまと新聞俳壇に投句をつづけ生涯の友・新井聲風を知る。その後「吟波」の俳号を「木歩」とあらためる。「大正俳壇の啄木」と言われ将来を嘱望されたが、関東大震災で焼死した。



 



背負はれて名月拝す垣の外

枸杞(くこ)茂る中よ本歩の残り居る

鰻ともならである身や五月雨(さつきあめ)

我が肩に蜘緋(くも)の糸張る秋の暮

己が影を踏みもどる児よ夕蜻蛉

犬猫と同じ姿や冬座敷

夢に見れば死もなつかしや冬木風

死思へばわが部屋親し昼の虫

行人の螢くれゆく娼婦かな

暮れぎはの家並かたぶく雪しづれ



 

 誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺してしまい生涯の歩行不能者となった。それゆえに小学校に行くことも叶わず、「軍人めんこ」や「いろは歌留多」によって文字を覚えた。
 16歳の頃、少年雑誌の俳句欄に興味を覚えて俳句の世界に入り、臼田亞浪に師事、『石楠』に投句した。富田木歩にとって、俳句は何ものにも代えがたい心の支えであったのだが、運命の日は突然にやってきた。
 大正12年9月1日午前11時58分、関東地方を襲った大激震。無二の俳友新井聲風の背に負ぶさっての逃避、阿鼻叫喚、家も人も全てを焼き尽くす紅蓮の炎、逃げ場を失い、聲風との別れを終えて木歩は運命を悟った。酷薄の生涯、木歩26歳、墨堤の涙となった。



 

 風の強い日だった。木の葉が不動堂の瓦屋根に舞いあがっていく。
 江戸五色不動のひとつ「目黄不動」で知られた牛宝山明王院最勝寺。本堂脇墓地に煤けた色の小さな墓石、台石に「富久」とあるのは最初に向島に芸妓屋を開業、花街の礎をつくった祖父の通称、屋号。正面には三名の戒名が並んでいるが戦時空襲の影響かどうか判然としない。どんな意味があるのか台石の上に並べられた小銭硬貨。カタカタと卒塔婆が泣き、心細げな碑影が石畳の上に映っている。右側面に木歩信士 永代供養料 寄進 新井聲風、左側面に木歩の戒名と没年月日が刻されている。寄進・新井聲風とあるのは震災の猛火の中、木歩を背負って逃げてくれた俳友聲風だ。そうか、あの聲風の援助で建てられた墓碑であったか。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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