徳富蘇峰 とくとみ・そほう(1863—1957)


 

本名=徳富猪一郎(とくとみ・いいちろう)
文久3年1月25日(新暦3月14日)—昭和32年11月2日 
享年94歳(百敗院泡沫頑蘇居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園6区1種8側13番
熊本県水俣市牧ノ内 生家墓地
京都府京都市左京区鹿ヶ谷若王子山町 若王子同志社墓地
 



ジャーナリスト・評論家。肥後国(熊本県)生。同志社英学校(現・同志社大学)中退。同志社英学校で新島襄に学ぶ。明治九年受洗。明治19年『将来之日本』を刊行。翌年上京して民友社を結成。雑誌『国民之友』創刊。のち貴族議員、大正2年政界を離れた。『近世日本国民史』全50巻で学士院恩賜賞受賞。



 東京・多磨霊園

 熊本県水俣市・生家墓地

 京都市・若王子同志社墓地



 嗟呼改革の健児たる諸氏は、或は煩惱の夢に驚かされざる、幽静なる黄泉に於て安眠し、或は禁殿に於て顧問官となり、元老院に於て評議官となり、或は世襲の爵を賜ひて貴族に列し、皆天恩の隆渥なるに浴し、優游ざん殘年を樂み以て安息することを得たり、然らば則ち改革彼自身も亦た安息することを得可き乎、曰く香、改革よ、改革よ、汝は決して安息することを得ざるなり、
 夫れ社會に爲さゞる可らざる目的あるは、猶ほ一箇人に共の目的あるが如し、社會に爲す可きの時代あるは、猶ほ一箇人に其の時代あるが如し、彼の改革家たる諸子は、其の爲す可きの時代に立ち、其の爲さゞる可らざるの目的を達し、所謂る改革の一部分を成就したれば、今は悠々然として安息するも、更に間然する所なしと雖も、改革の一部分を成就したるが故に、改革は成就したり、一の改革家安息するが故に、社會全體の改革も亦安息す可しと速了するものあらば、吾人未だ共の可なるを見ざるなり、
                                            
(嗟呼國民之友生まれれたり)



 

 国民新聞社を設立して『國民新聞』を創刊し、明治・大正・昭和の三代にわたって日本言論界に大なる影響を与えた徳富蘇峰の思想的生涯は、平民主義から日清戦争後の三国干渉に衝撃を受け帝国主義者に変容していくが、このことによって弟・蘆花と決別、以後の長い一生を変節者の名を負って活動することになる。
 終戦後、公職追放を受けたのちは、家督を嫡孫・敬太郎に譲り、貴族院議員、帝国学士院会員、芸術院会員、文化勲章など、一切の栄職、栄位を辞退、熱海に隠棲した。23年、静子夫人が病没。昭和32年11月2日、膀胱炎から尿毒症を併発して、熱海の「晩青草堂」で安らかな大往生を遂げたが、蘇峰の業績は薄らいでいくばかりである。
 ——絶筆〈一片の丹心渾べて吾を忘る〉。



 

 大正14年から昭和18年まで住んでいた大森山王の居宅「山王草堂」入口にあった公孫樹に同じく、この墓地入口にも二本の公孫樹が植えられている。
 日本の降伏調印の昭和20年9月2日、自ら命名したという戒名「百敗院泡沫頑蘇居士」につづいて、静子夫人が病没した昭和23年12月7日の翌年9月、蘇峰87歳(満86歳)の時に揮毫した「侍五百年之後/頑蘇八十七/平常院静枝妙浄大姉」と刻された「山王草堂」の秩父石を転用した墓標は、木立に囲まれた湿っぽい庭土の奥に一族の墓とともに並んでいる。
 また熊本県水俣市牧ノ内の生家墓地、静岡県御殿場市の青龍寺、京都市の若王子同志社墓地などにも分骨が埋葬されてある。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   戸板康二

   峠 三吉

   十返 肇

   戸川秋骨

   戸川昌子

   戸川幸夫

   時実新子

   土岐善麿

   徳田秋声

   徳富蘇峰

   徳冨蘆花

   徳永 直

   外村 繁

   富沢赤黄男

   富田木歩

   富永太郎

   富安風生

   豊島与志雄

   豊田三郎