戸川秋骨 とがわ・しゅうこつ(1870—1939)


 

本名=戸川明三(とがわ・めいぞう)
明治3年12月18日—昭和14年7月9日 
享年68歳(自然院釈英明秋骨居士) 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園21区1種24側16番



 

評論家・随筆家。熊本県生。東京帝国大学卒。島崎藤村、馬場孤蝶らと交わり、『文学界』創刊とともに同人となる。明治43年慶應義塾大学の教授。エマーソン、ボッカッチョなどの翻訳やユーモアな随筆で知られる。翻訳『エマーソン論文集』、随筆『英文学覚帳』などがある。




 



 器械を一とまはしガタリと動かすと幾個かの字が出て来る、また一とまはしガタリと動かすと、また幾個かの字が出て来る、幾度かそれを繰りかへして居ると、沢山の字が集つて来るから、それを並べると、立派な学問が出来上る。これが誰でも知つて居るガリヴア巡島記で、スヰフトが書いて居るラガトオの大学の記事である。が、これにも増して容易にまた簡単に出来るのものは今日の吾が翻訳である。西洋のある名ある書物を始めて翻訳するのは、可なり骨の折れる仕事であるが、ナニそれでも少し根気よく器械でも動かす積りでやれば、ぢきに出来る。その翻訳が一つ出来上がれば、あとはわけなしで、ラガトオ市の大学で器械を動かすよりも手軽に出来る。凡そどんな翻訳にだつて文句をつけて、つけられないのはないのであるからその一つ、出来上つた翻訳に少し間違でも見つけたら、それを大袈裟に吹聴して、それから大体の他の部分にも筆を入れて、前のより少し下手にすれば、それで沢山なのである。下手と云つて悪ければ、前のよりは解らなくするのである。かういふ風にして拵へて行けば、翻訳なんてものはいくらでも出来る。かういふ風にして翻訳を作り出す所を私は有限責任翻訳製造株式会社といふ。さういふ翻訳では原文に忠実でないとか、原文の意に反するなんて云ふものもあるが、それは甚しい愚論で、そんな事は決して顧慮すべき事でない、そんな事を顧慮するのは無益といふよりも却つて有害である。何となればそんな事を云つて居ては、却つて文化の普及を阻害するからである。


                                                        
(翻訳製造株式会社)



 

 明治3年に生まれたから明三(めいぞう)と命名された戸川秋骨。明治学院の同級生であった島崎藤村、馬場孤蝶らと創刊した『文学界』の同人であった樋口一葉や大きな影響を受けた斎藤緑雨は遠く明治の世にすでに亡く、ユーモアのある随筆家として評価され、英文学者としての研究はもとより、手当たり次第と言うほど多岐にわたっての翻訳は、時代への貢献著しいものがあったが、昭和14年7月5日、神経痛のため信濃町の慶應義塾大学病院に入院。〈どうも病院に来たのは失敗だった。何もかも悪くなった〉と長女のエマに漏らしたという翌日の7月9日午後6時30分、急性腎臓炎を併発、イ號病室で死去。病床にあって、自ら種を播いて水をやり、生育を楽しみにしていた自邸庭の幾鉢かの朝顔の花をついに見ることはできなかった。




 

 大正14年、与謝野鉄幹が紹介した文化学院で英文学の出講をしていた秋骨に、〈荻窪に土地を借りることになったから一緒に借りないか〉と誘われて、昭和2年から終焉まで住んだ隣人の与謝野晶子は秋骨の死を悼んで〈み柩におほやけごとを謝してのち涙流るゝ私の恩〉など十首を詠んでいる。日本最初の公園墓地として長い歴史を持つ武蔵野のこの広大な霊園には与謝野鉄幹夫妻や慶應義塾大学で英文学を講じていた時の学生、石坂洋次郎、水上滝太郎などの墓も点在しているが、小金井門に近い一画にある「戸川家之墓」、ヴィクトル・ユーゴーにちなみ命名されたという長男有悟氏によって一周忌に建てられた墓碑は、暮れゆく晩夏の残り陽が薄れてゆく中にひっそりと佇んでいた。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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