子母沢 寛 しもざわ・かん(1892—1968)


 

本名=梅谷松太郎(うめたに・まつたろう)
明治25年2月1日—昭和43年7月19日 
享年76歳(慧光院文宗寛居士)
神奈川県鎌倉市十二所512 鎌倉霊園4区5側28号



小説家。北海道生。明治大学卒。読売新聞、東京日日新聞記者の傍ら、旧幕臣の聞き書きをまとめ昭和3年『新撰組始末記』を刊行。6年『紋三郎の秀』を発表。大衆文壇に認められた。『国定忠治』『父子鷹』『勝海舟』などがある。 







 「おい勝さん、あなた、今夜瞑り、もうわたしがとこへは来ないつもりだね」といった。びっくりして、思わず小吉も息を呑んだ。
 「いいんだ、あなたはね。はっはっはっ。とっくに山田流刀法の極意皆伝という奴だよ」浅右衛門は肥った腹をゆすって笑い乍ら、
 「毎日のように人の首を斬るので、いつの頃からか人間が本当の決心をした時の気持が、こっちの胸へ自然にぱッとうつって来るようになって終ってね。合羽や頭巾を貰っていただこうというのは実は心中お別れのつもりなのさ」
 小吉は何にかしら強い力にぐんぐん押されて、背中にべっとりと汗がにじんでいた。
 「山田家には昔から口伝があるという。幼少の頃これがどんなものか、修行を積んでいつかはその奥の院の御本尊をじかに拝める時が来ると一心不乱にやったがね、いざ当主となり、さて父から口伝の伝授となったら、何ぁんだ屁を見たような事さ。唯勿体をつけていただけの事でな。勝さん、今迄あなたに御伝授申した柄元の握り方、間をおいて指一本一本を出す息、吐く息に合せて静かにおいて行く、あれがその口伝だ。あんな口伝は弓術にもあり、馬術のたづな捌きにもある。あれを教えて終ったから、実をいうとわたしはもうあなたへ教えるものは何んにもないのだよ」
 浅右衛門は大声で笑いつづけて、
 「人間の世の中なんてえものは、みんなこんなようないい加減なものなのさ。底をついて見れば凡そは馬鹿馬鹿しい」といった。

(父子鷹)



 

 両親とは縁薄く、早くから祖父母に養育された。創価学会第二代会長の戸田城聖とは幼年期を北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)で共に過ごしており、後年、子母沢は執筆活動や出版において多大な支援を受けている。
 ——家禄20俵の御家人で上野の彰義隊に参加して敗れ、箱館五稜郭の戦いに敗れ、しかも浪の荒れる石狩の小漁村に埋れて名も無く朽ち果てた祖父に溺愛され、幼子に寝物語として聞かせてくれた幕末江戸の鮮やかな印象はいつしか子母沢寛の身となり心となり、愛惜を伴った江戸への挽歌となって、昭和43年7月19日、藤沢鵠沼の自宅で心筋梗塞によって死去するまで、作家生活の糧ともなったのだった。



 

 ひな壇状の墓碑が幾重にも連なっているこの山の上には高く熱い太陽があった。
 秋彼岸に近い鎌倉の大霊園には、二人、三人と家族ずれの人群れが点々と見受けられる。時折の風にあおられ、あちこちの線香のけむりが緩やかな渦を巻いて靡びき、遠くに見える山々の稜線に向かって次第に薄らいでいく。
 大森新井宿(現・東京都大田区中央4丁目)の子母沢に住んでいたことから筆名にしたとされている子母沢寛は、大正末年から昭和にかけて、新聞記者を勤める傍ら『新撰組』取材のために夜行で行って翌日夜行で帰るという京都通いを精力的につづけたこともあったというが、今はこの霊園の高台にある「梅谷家之墓」で静かな休息している。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


    椎名麟三

    志賀直哉

    重兼芳子

    獅子文六

    柴木皎良

    芝木好子

    柴田錬三郎

    芝 不器男

    司馬遼太郎

    澁澤龍彦

    渋沢秀雄

    島尾敏雄

    島木赤彦

    島木健作

    島崎藤村

    島田清次郎

    島村抱月

    清水 昶

    清水澄子

    子母沢 寛

    下村湖人

    庄野潤三

    白井喬二

    素木しづ

    白洲正子

    白鳥省吾

    新村 出