柴田錬三郎 しばた・れんざくろう(1917—1978)


 

本名=斎藤錬三郎(さいとう・れんざぶろう)
大正6年3月26日—昭和53年6月30日 
享年61歳(蒼岳院殿雋誉圓月練哲大居士)
東京都文京区小石川3丁目14–6 伝通院(浄土宗)



小説家。岡山県生。慶応義塾大学卒。『イエスの裔』で昭和26年度直木賞受賞。30年から『週刊新潮』に連載した読切連作の長篇小説『眠狂四郎無頼控』によって剣豪作家として名を知られた。『三国志英雄ここにあり』で吉川英治文学賞受賞。『赤い影法師』『孤剣は折れず』『図々しい奴』などがある。







 私は、作家の魂の奥に燃える焔を、かりに「寂寞」と云おう。それは、魯迅が「吶喊」の原序の最後で、「……わたし自身としては今はもう、痛切に言葉の必要を感じるわけでもないが、やはり未だあの頃(雑誌「新生」に失敗した頃)の寂寞の悲哀を忘れることが出来ないのだろう。だから時として仍幾声か吶喊の声を上げて、あの寂寞の中に馳せ廻る猛士を慰め、彼らをして思いのままに前進せしめたい」と書いているその寂寞を意味する。魯迅は「新生」に失敗した時「……几そ一人の主張は賛成を得れば前進を促し、反対を得れば奮闘を促す、ところで爰に生人の中に叫んで生人の反響なく、賛成もなければ反対もないときまってみれば身を無限の荒野に置くが如く手出しのしようがない。これこそどのような悲哀であろうか。わたしが其処に感じたのは寂寞である」と書いているが、革命期文学にあって、この寂寞の中から立ち上る人々こそ選ばれたる新しき前進の旗手であることは云うまでもない。では、戦争の強圧下に、日本の現代作家で、その幾人が、寂寞に堪え、正しき判断力と高き聡明な知性を持して、深い悩みを悩んだ孤独の魂を抱いていたか。どのような奇怪な拷間を忍び、どのような傷ましい暗黙の悲劇を演じたことであろう。そして敗戦が来るや、次に幕をあげられた舞台の、浅ましい無責任な喧騒のVITA NUOVAの序曲に対し厳しき精神を徴動だにさせなかった人が、どれだけいるというのであろう。
                                                   
(自虐する精神の位置)



 

 転びバテレンと日本人女の混血という出自の円月殺法を持った虚無的剣士『眠狂四郎』は純文学をすてた作家の無頼精神から生まれた虚構の人物であるが、常日頃、例の苦虫を噛み殺したような顔をして「つまらん」、「面白くない」を連発していたという柴田錬三郎と、ニヒルな罪悪感を漂わせてそのダンディズムを貫く不適な様を重ね合わせてみる。虚に賭けた大衆作家の哲学が溢れるようである。
 剣豪小説ブームを起こし、剣豪作家として絶大な人気を集めた「シバレン」こと柴田錬三郎。昭和53年6月30日未明、闘病の末、肺性心によって慶應義塾大学病院で逝った彼の死に顔は、相変わらず渋い表情だったが、閉じた目元には微笑みが浮かんでいたのであった。



 

 京都知恩院の末寺、浄土宗無量山伝通院寿経寺には、徳川家康の母於大の方をはじめ、千姫や徳川家に繋がる女人が多く眠っている。今東光らと「鎖に繋がれていない犬、首輪のない犬たちの会」という趣旨の黒岩重吾、吉行淳之介、陳舜臣、田中小実昌、野坂昭如、戸川昌子、長部日出雄、 井上ひさし、藤本義一などが参加した作家の集まり「文壇野良犬会」を結成、大いに気を吐いたりもしたが、無頼は無頼、時代小説の傑作を書いた作家の休む場所としては、申し分のない墓所である。まして師と慕った佐藤春夫の眠る墓所でもあるのだから。横尾忠則設計になる八段重ねの墓碑、球形の文学碑、晩年に影響を受けたという横尾氏の宇宙観が、昼も夜も空を仰いでいる。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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