野呂邦暢 のろ・くにのぶ(1937—1980)


 

本名=納所邦暢(のうしょ・くにのぶ)
昭和12年9月20日—昭和55年5月7日 
享年42歳(恭徳院祐心紹泰居士)❖菖蒲忌 
長崎県諌早市城見町 金谷墓地

 



小説家。長崎県生。諫早高等学校卒。ガソリンスタンド店員など食を転々とし、昭和32年に佐世保の自衛隊に入隊。昭和41年に『壁の絵』が芥川賞の候補作に挙げられたが落選した。『草のつるぎ』で48年度芥川賞受賞。『鳥たちの河口』『一滴の夏』『諫早菖蒲日記』などがある。






 

 まっさきに現れたのは黄色である。
 黄色の次に柿色が、その次に茶色が一定のへだたりをおいて続く。
 堤防の上に五つの点がならんだ。
 堤防は田圃のあぜにいる私の目と同じ高さである。点は羽をひろげた蝶のかたちに似ている。河口から朝の満ち潮にのってさかのぼってくる漁船の帆が、その上半分を堤防のへりにのぞかせているのである。
 ゆっくりとすべるように動く。
 朝は風が凪いでおり、さもなければ西の逆風が吹く。けさはいつになく東の風である。帆を張るのはめずらしいことだ。
 河岸に群れつどうた漁師の身内どもが見える。先頭の舟が帆柱にかかげた大漁旗をみとめてどよめいていることだろう。今しがた私が遠眼鏡でたしかめたものである。舟付場に女子が近づくのはかたくいましめられている。去年までは私が船溜りへおりて魚の水揚げを見物していても母上はだまっておられた。しかし、去年の暮れ、嘉永の御代が安政となりかわってからは、母上は何かにつけ口やかましく女子の心得を説かれる。十五といえば、男子なら元服をする年齢である。いつまでも志津は子供のつもりであってはならぬと申される。

(諫早菖蒲日記)



 

 京都大学の受験に失敗して進学をあきらめた当時は、不況の最中で郷里に仕事の口もなく、自衛隊入隊などを経て、諫早に帰ってからは家庭教師で生活をまかなう日々であった。
 〈私の二十代はただ『壁の絵』を書くためにあったという気さえする。〉と記しているように野呂文学すべてのテーマを含んだこの作品は、はじめて芥川賞候補作となった。以後も『白桃』、『海辺の広い庭』、『鳥たちの河口』、『草のつるぎ』と矢継ぎ早の候補作を発表し、49年、ようやく『草のつるぎ』で芥川賞を受賞した。そのわずか6年後の昭和55年5月7日未明、結婚後に移り住んだ諫早市仲沖町の古い武家屋敷(代表作『諫早菖蒲日記』の主人公藤原志津がかつて住んでいた家)の借家で心筋梗塞のため急逝した。



 

 諫早の駅前を真っ直ぐ、裏山橋を渡ってひと坂を越えると金谷墓地はある。九州地方独特の刻字に金色を施された「納所家之墓」、傍らには親しかった文藝春秋編集者豊田健次の筆になる「菖蒲忌はわが胸にあり」の碑が建っている。
 「菖蒲忌が近いので」と墓域のまわりを清掃している人がいる。近しい人であったのか、「恰好にかまわなかった人で、猫が好きだったな。それにインスタントラーメンやカレーライスをよく食べていたよ」と。そんな声を聞きながら、向かい合う丘陵や野呂邦暢が通い詰めていたという図書館、終焉の地である本明川河畔の町屋あたりをぼんやりとながめていると、遥か有明の海の干潟から潮香をのせた風が届いてくるようだった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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