野口雨情 のぐち・うじょう(1882—1945)


 

本名=野口英吉(のぐち・えいきち)
明治15年5月29日—昭和20年1月27日 
享年62歳 ❖雨情忌 
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園32区1側8番 
茨城県北茨城市磯原町磯原 生家墓地 



詩人。茨城県生。東京専門学校(現・早稲田大学)中退。明治38年処女民謡集『枯草』を自費出版。大正8年詩集『都会と田園』を刊行。児童雑誌『金の船』に童謡を相次いで発表し名作を残した。童謡集『十五夜お月さん』『青い眼の人形』、民謡集『別後』『雨情民謡百篇』などがある。



 小平霊園

 茨城県・磯原町 生家墓地


 

おれは河原の 枯れすすき 
同じお前も 枯れすすき
どうせ二人は この世では 
花の咲かない 枯れすすき

死ぬも生きるも ねーお前 
水の流れに 何に変わろ
おれもお前も 利根川の 
船の船頭で 暮らさうよ

枯れた 真菰に 照らしてる
潮来出島の お月さん
わたしやこれから 利根川の 
船の船頭で暮らすのよ

なぜに冷たい 吹く風が 
枯れたすすきの 二人ゆえ
熱い涙の 出たときは 
汲んでお呉れよ お月さん

どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れすすき
水の枕に 利根川の 
船の船頭で暮らさうよ  
                                    
(船頭小唄)



 

 〈雲になりたや空飛ぶ雲に 気随気ままな白雲に〉という自作句を好んだ自由主義者野口雨情が、田園詩と自ら名付けた童謡は、大正・昭和の人々の心に深い感銘を与えた。中山晋平や本居長世の曲によって「兎のだんす、あの町この町、黄金虫、赤い靴、七つの子、十五夜お月さん、青い眼の人形〉など、今も歌いつがれているが、その中にはサトウハチローをして、浪花節的童謡と批判せしめた作品もあった。
 昭和18年、茨城県多賀郡磯原(現・北茨城市磯原町磯原)への最後の帰郷の後、中風に倒れ、翌年不自由な身体をおして宇都宮郊外鶴田の地に疎開したが、1年後の昭和20年1月27日、つる夫人と六人の子供達に見守られながら世を去った。



 

 水戸光圀公下賜の楠木の大木がそびえ立つ豪壮な磯原の生家は『野口雨情資料館』として公開されている。分 骨された遺骨は郷里の磯原に運ばれ、離婚した最初の妻ひろとの息子である長男の雅夫によって、昭和46年祥月命日に建てられた磯原海岸を望む小高い山上にある野口一族の墓地に埋葬され、「野口雨情墓」としてあった。
 一方、武蔵野のはずれ、多摩霊園にあるこの墓は、再婚した妻つるとの間に生まれた三男存弥によって建てられ、柘植や沈丁花を左右に植え込んだなかに、田舎家風を模した石灯篭を配してあり、その石面には「野口英吉」と「妻 つる」の二行が刻まれていた。
 ——〈烏なぜ啼くの 烏は山に 可愛い七つの 子があるからよ〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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