本名=野田宇太郎(のだ・うたろう)
明治42年10月28日—昭和59年7月20日
享年74歳(新帰寂文学院散歩居士)
神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目7–14 青柳寺(日蓮宗)
詩人・評論家。福岡県生。旧制第一早稲田高等学院(現・早稲田大学附属早稲田高等学院)中退。昭和8年第一詩集『北の部屋』を刊行。15年上京、出版社につとめながら詩人として活躍。また26年『日本読書新聞』に『新東京文学散歩』を連載、〈文学散歩〉という新分野を開いた。『感情 自選詩集』『日本耽美派文学の誕生』などがある。

古きものは滅びる、それは自然の理であらう。新しきものは古びる、これも自然の理である。私はよしないことを繰り返すつもりはない。滅び去つたものならば、それを蘇らせても詮ないことである。然し、それらの歴史は本當に滅び去り古び去つたものだらうか、と私は反問する。否否!もし滅び去ったものだとしても、滅び去ったものを知らなければ、生々流轉の法理さへ、私には納得出來さうもない。
さう思って私はとある冬の日に、新しい東京の文學散歩を思ひ立った。昭和二十五年十二月某日のことである。近代文學の足跡を求めて、と云はうか、それとも、心のあとを求めてと云はうか。それはどちらでもよい。私は東京生れではないから、懐古の情にのみ誘はれて歩かうとするわけでもない。云ふならば、過去を惜しむ、叉、家中枯骨を拾ふ代りに、家中寶玉を求むる氣持からである。
私は着古した破れ外套のポケツトに黄色の鉛筆一本と、小さな手帳、それに一冊の新東京地圖といふのをしのばせた。これがすべてである。履き馴れた日和下駄に蝙蝠傘といふあの三十六年前の「日和下駄」の雅士とはくらぶべくもない私の心と姿である。日和下駄の緒ならぬ、靴の紐を締め直して、折からの木枯に思はず外套の襟をかき立てたのである。
(新東京文学散歩)
先の大戦のあと、焦土と化した帝都にもようやく季節が巡り始めた。野田宇太郎は無我夢中で東京を歩き続けたのだ。
〈足で書く近代文学史---と、そんな大それた考へをいだいてゐたわけでもなく、また私にそれが書けると思つてゐたわけでもなかつたが、新東京文学散歩といふ漫然とした気持ちで焼けあとの東京を歩いてゐるうちに、一つの事跡に自然につながつてゆき、いつしかそれは近代文学史の形に似て来るのを私は知つた〉。そうして『新東京文学散歩』の連載は始まったのだった。
昭和59年7月20日、国立療養所村山病院で心筋梗塞により74年の生涯を閉じた野田宇太郎。思えばなんと多くの文学愛好者たちが野田の足跡をなぞっていったことだろう。
戦争によって無残に破壊された歴史遺産や風土、文学者としての憤りは「明治村」創設などへと向けられていった。
詩人野田宇太郎は「文学」を風景として観じ、足で綴った。さすらい留まるところを知らず、街を横切り、辻に佇む。谷を抜け、川を越え、時には海風に和んだ。その射通す眼の先には、いつの時も朽葉色に染まった「文学」の碑があった。
憧れと道標、果てしもなく続く文学路、私の「掃苔録」も否応なく野田の影を追っている。野田が最後に立ち止まった地、相模野青柳寺の「野田宇太郎之墓」。「花一期一会詩」と側面に彫られた漆黒の碑にひっそりと映り込む墓地の秋景を、文学散歩居士はなんと観じているのだろうか。
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