室生犀星 むろお(むろう)・さいせい(1889—1962)


 

本名=室生照道(むろお・てるみち)
明治22年8月1日—昭和37年3月2日 
享年72歳 ❖犀星忌 
石川県金沢市野田町野田山1番地2 野田山墓地


 
詩人・小説家。石川県生。金沢市立長町高等小学校中退。12歳で金沢地方裁判所の給仕として働く中、文学を志す。萩原朔太郎を知り、大正5年『感情』を創刊。『中央公論』に『性に目覚める頃』等を発表。『杏っ子』で読売文学賞受賞。『かげろふの日記遺文』『愛の詩集』『あにいもうと』などがある。







  

 道網母の苦痛も、私にはあまりに判り過ぎてゐたが、平安朝の丈高い叢を掻き分けて見るには、墓所さへ失つてゐた町の小路の女の、みじかい生涯を見つめる私の眼は決して離れようとしなかった。私はすべて淪落の人を人生から贔屓にし、そして私はたくさんの名もない女から、若い頃のすくひを貰った。學間や慧智のある女は一人として私の味方でも友達でもなかった。碌に文字を書けないやうな智恵のない眼の女、何処でどう死に果てたか判らないやうな馬鹿みたいな女、さういふ人がこの「蜻蛉の日記」の執筆中に、机の向う側に坐つて笑ふ事も話をする事もなく、現はれては朦朧たる姿を消して去った。私を教へた者はこれらの人々の無飾の純粋であり、私の今日の仕事のたすけとなった人々もこれらの人達の呼吸のあたたかさであった。私が時を隔てて町の小路の女の中の、幾らかでも榮えのある生涯の記述をすすめたのも、みな、この昔のすくひを書き留めた永い願ひからであった。(中略)
 われわわは何時も面白半分に物語を書いてゐるのではない。殊に私自身は何時も生母にあくがれを持ち、機會を捉へては生母を知らうとし、その人を物語ることをわすれないでゐるからだ。われわれは誰をどのやうに書いても、その誰かに何時も會ひ、その人と話をしてゐる必要があったからだ。誰の誰でもない場合もあるが、つねにわれわれの生きててゐる謝意は勿論、名もない人に名といのちを與へて、今一度生きることを、仕事の上で何時もつながって誓ってゐる者である。でたらめの骨髄に本物が些んの少しばかり生き、それを嗟矢捜ることに晝夜のわかちなく續けて書いてゐると、言つていいのであらう。
                                       
(『かげろふの日記遺文』あとがき)



 

 別荘のあった軽井沢の矢ヶ崎川畔に犀星が望んだ文学碑がある。
 〈我は張り詰めたる氷を愛す 斯る切なき思ひを愛す 我はその輝けるを見たり 斯る花にあらざる花を愛す 我は氷の奥にあるものに同感す 我はつねに狭小なる人生に住めり その人生の荒涼の中に呻吟せり さればこそ張り詰めたる氷を愛す 斯る切なる思ひを愛す〉——。
 昭和12年、満州国旅行の帰途、京城(現・ソウル)で買い求めた石の俑人(人形)が一対並んでいる。自身の骨を病没した妻の遺髪もろとも埋めてしまえば、碑もしっかりと生きるだろうと生前に建てたものだ。昭和37年3月26日肺がんのため虎の門病院で逝った詩人は、その年の夏、分骨として小さな白磁の壺に入れられ、俑人の下穴に埋められた。



 

 生後数日で金沢市街を流れる犀川のほとり、雨宝院という古寺に犀星は貰われ育った。その生育上にまつわる哀切や屈辱は、〈ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの〉と歌った詩人の心の奥底にいつまでも残っていた。
 金沢の南郊、市街を一望する野田山の墓地に、感傷を封印した犀星は眠っている。赤松の太幹を背後に、軽井沢別荘の庭に設置してあった浅間焼石の九重塔、塔前に「室生犀星」と自署を拡大した石柱が建っている。歩み石、土庭も苔生し、落ち松葉が散乱している。
 軽井沢の石俑人に納められた分骨は、15年後、娘朝子によってこの碑にまとめて祀られたが、主を失った彼の地の碑にも、冷たく張りつめた冬の残り陽は刹那に射し込んでいるのであろうか。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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