向田邦子 むこうだ・くにこ(1929—1981)


 

本名=向田邦子(むこうだ・くにこ)
昭和4年11月28日—昭和56年8月22日 
享年51歳(芳章院釈清邦大姉)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園12区1種29側52番 



脚本家・小説家。東京府生。実践女子専門学校(現・実践女子大学)卒。雑誌記者を経て、放送作家としてラジオ、テレビの脚本を書いた。短篇小説連作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』で昭和55年度直木賞受賞。『父の詫び状』『あ・うん』『思い出トランプ』などの作品を書いたが、飛行機事故で急死。







  

 さと子は、はじめて、男と喫茶店に入った。「蛾房」という暗い小さな店である。珈琲の香りで、めまいがするようだった。
 「うちでは、飲ませてくれないんです。女の子が珈琲のむと色が黒くなるって、父が……」
 辻村は笑いながら、砂糖をいれてくれた。
 辻村は断った本当の理由を間かせて欲しいと言う。
 「反対です。あたし、新聞を三面記事から読むっていったでしょう。それで断られたとおもってました」
 「ぼくは、あのとき、あ、いい人だなって」
 「お見合いして断ったのに逢うのは、いけないことではないでしょうか」
 「自由恋愛なら、いいじやないですか」
 男とふたりだけでのむ黒くて重たい液体と自由恋愛ということばに、さと子は体が熱くなった。
 この日、さと子は、嘘をついた。友達とお汁粉を食べて遅くなったと言い訳をした。嘘と珈琲はよく似合うことに気がついた。
 夜遅くなって門倉が来た。青りんごというのを手土産に持って遊びにきたのだ。青いくせにすっぱくない。珍しいので千疋屋あたりで大流行りだという。
 たみが大事そうに皮をむいた。途中で切るまいと気を遣い、長く垂らしてむく手許を、仙吉と門倉がじっとみている。食べてみると一人前の赤いりんごの味がした。
 さと子は、一番大事なことは、人にいわないものだということも判った。自い歯をみせてサクサクと青りんごを食べる母も、父も、門倉のおじさんも、みな本当のことはいわないで生きている。大人の仲間入りをしたような気がしたさと子は、サクサクという噛み音を母と合せるようにして口を動かした。
                                                              
 (あ・うん)



 

 映画雑誌の編集者の傍らラジオやテレビの台本・脚本を書くようになるのだが、『七人の孫』、『だいこんの花』、『寺内貫太郎一家』、『阿修羅のごとく』、『あ・うん』などテレビドラマでの向田邦子作品の視聴率は常に高く、その質も大いに評価されていた。
 昭和50年10月、邦子は乳がんの手術を受けたが、そのことを3年間公表しなかった。死の恐怖に脅かされた彼女は、以後、猛烈に仕事や旅行にエネルギーを費やしていく。放送作家から小説の道へ歩みを向け、直木賞も手に入れたが、その死は、思いもかけない形で突然にやってきた。
 昭和56年8月22日午前10時10分、取材先の台湾上空で、飛行機事故により110人の乗客・乗員と共に散っていったのだった。



 

 日本で初めての公園墓地である都立最大の多磨霊園、桜並木の葉影が編み目模様を映している参道の横道を入ると、邦子の父敏雄が亡き母のために建てた小振りの墓があった。昭和44年に64歳で急逝した父が眠るこの「向田家之墓」に、予期せぬ結末に見舞われた邦子も葬られた。
 白菊と赤いカーネーションの供えられた墓前に、彼女が愛した猫マミオを偲んでファンが置いていったものなのか、小さな猫の置物があくびをしている。みずみずしい草いきれが蜃気楼のようにもやいたって碑は自然に和み、どこからか蝶々が飛んできて、咲きかけの草花に陽はたっぷり。本の形をした墓碑銘には邦子の略歴と森繁久弥の挽歌。
 ——〈花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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