村野四郎 むらの・しろう(1901—1975)


 

本名=村野四郎(むらの・しろう)
明治34年10月7日—昭和50年3月2日 
享年73歳(明徳院文修雅道居士)❖亡羊忌 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園8区1種14側 



詩人。東京府生。慶應義塾大学卒。大正15年処女詩集『罠』刊行。昭和14年『軆操詩集』を発表、そのほか実験的作品を多くの詩誌に発表した。『亡羊記』で読売文学賞受賞。『GALA』『季節』『無限』などの詩誌を創刊した。『抒情飛行』『抽象の城』『蒼白な紀行』などがある。







  

さよならあ と手を振り
すぐそこの塀の角を曲がって
彼は見えなくなったが
もう二度と帰ってくることはあるまい

塀のむこうに何があるか
どんな世界がはじまるのか
それを知っているものは誰もないだろう
言葉もなければ 要塞もなく
墓もない
ぞっとするような その他国の谷間から
這い上ってきたものなど誰もいない

地球はそこから
深あく虧けているのだ
                                                      
(『亡羊記』塀のむこう)



 

 『亡羊記』などすばらしい作品があるにはあるのだが、私にとって村野四郎といえば先ず『軆操詩集』だ。
 はじめて『軆操詩集』を目にした時には本当に驚いてしまった。「鉄亜鈴」、「鉄棒」、「棒高跳び」、「飛込」等々、スポーツの種目を素材とした題名はもとより、一瞬の「時」や「心理」を冷静かつ自在に切り取り、解析し、操っているその斬新な感覚と表現方法に釘付けになったものだった。
 村野四郎はその鋭い感性で現代詩人会初代会長として現代詩壇の発展に寄与し、詩誌を多々創刊、山本太郎、谷川俊太郎はじめ多くの新人たちを発掘してきた。
 昭和50年3月2日午後5時49分、パーキンソン病のため入院加療中、肺炎を併発して東京・順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。



 

 〈人間は骨になったとき、はじめて触れられる物体になる。もうこれ以上変化のしようのないもの、永遠不可変の、安心できる存在となる〉。これは「骸骨について」という詩に対する村野四郎自身の言葉であるが、その詩はつづく〈いまは からんとした石灰質の 果てしなくなつかしい一つの物象 かれは墓場にいるとは限らない ある時 ぼくの形而上学の中を こっちに向いて歩いてくるのだ〉と——。
 この霊園の正門を入るとすぐ右手に管理事務所と納骨堂のみたま堂がある。その少し先の区画、樹葉に抱かれた「明徳院文修雅道居士」と刻まれている墓碑があった。武蔵野で生まれ、武蔵野で育った詩人は武蔵野に眠っている。ほど近い夏の匂いをかぐ素振りをして。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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