村松梢風 むらまつ・しょうふう(1889—1961)


 

本名=村松義一(むらまつ・ぎいち)
明治22年9月21日—昭和36年2月13日 
享年71歳 
神奈川県鎌倉市二階堂421 覚園寺(真言宗)


 
小説家・随筆家。静岡県生。慶應義塾大学中退。新聞記者の傍ら、『琴姫物語』が滝田樗陰に認められ作家生活に入る。『正伝清水次郎長』その他の考証的伝記風作品を多く書いた。新派の演目『残菊物語』の原作者でもある。ほかに『本朝画人伝』『近世名勝負物語』などがある。作家村松友視は梢風の孫。







  

 梢風には四人の男の子があつた。長男は生きていれば数へ年で四十二三にもなる筈だが、昭和十三年上海でチブスに罹って二十八歳で死んだ。現在三人で、一番上が四十、一番下が二十九である。長男の遺児を戶籍上末子としたのがすでに十四である。放埒無軌道のこの父親は殆ど子供に対して関心がなかつた。長男が死んだ時だけ、飛行機で上海へ行って、泣き倒れ、遺骸を骨にして内地へ持ち帰った。子供といふものは、草花の種が地に落ち散つても自然の環境に恵まれれば芽を出し独りで花が咲くように、親の手を労せずとも成人するのである。
我が子に対してばかりでなく、梢風は絕えて人の世話をしたことはない。生涯人の世話になり、恩恵に浴し、相手に迷惑を掛けたばかりで、それに対して報恩も奉仕もしたことがない。師もなく弟子もなく真の友人すらない。全くの孤独である。だがその全部が師であり益友だとも云える。
(中略)
 梢風は、まさに朽ち果てんとする体力と才能を最大限に駆使しているように見える。彼は牛の脳下垂体を続け様に三回もやったと噂され、牛のお蔭で新らしい恋愛もやっているという評判もあるが、由来彼は自己の不行状を宣伝し、得たりかしこしと売り物にして来た文士だから、うっかりその手にのることも禁物である。しかし赤の靴下、赤のネクタイ、赤いマフラはまだしもとして、梢風の和服とくると、二十年来呉服屋から着物を買ったことがない。紬や縮緬の生地を買い、それを小紋や変り色に染めさせるのだが、その小紋も助六時代まで遡る。狭い鎌倉の人士はこの異形の服装を見慣れてしまったが、地方から来る修学旅行の女学生の一隊は、道で梢風に行き違うとあツと魂消て全隊足を停めるのである。これも宣伝の一具であろう。
  近来彼は時々東京へ出て、日比谷の日活ホテルの九階に陣取り、ノートルダムの怪物みたいな面を窓から突き出し、日本のブロードウエーを俯瞰して何事かを企らんでいる。

 

(梢風物語)



 

 村松梢風は自他共に許す「女好き」であった。晩年になっても衰えることはなく女性との関わりは生涯持ち続けてきた。妻そうとは別居、愛人絹江と戦後から住み始めた鎌倉・西御門時代は仕事においても遊びにおいても思いのまま、彼にとって人生最盛の潮合であったが、肉体の衰えだけは如何ともしがたく、人参エキスはもとより、牛の脳下垂体を腰に移植するというようなことまで、これはという方法は何でも試してみたが、しかし徐々に蝕まれていった肉体は歩行にも支障をきたすようになった。昭和35年暮れに体調を崩し、鎌倉の佐藤病院に入院。年明けに移った東京大学病院で肺結核と診断されたが、翌2月13日、治療の効果もなく死去。死後解剖の結果、病名は肺カンシダ症と判明した。



 

 〈墓は覚園寺。戒名は要らん〉と言い残した通り、村松梢風の墓は鎌倉二階堂・鎌倉宮の北の谷奥、北条義時ゆかりの覚園寺にある。梅雨空の鬱々とした境内、鎌倉最大と言われる茅葺き建造物「本堂薬師堂」脇の参り道、結界を越えると少しひらけた墓域が現れた。小さな墓地の左奥隅に丸い台座の上に「村松梢風」とのみ刻された円筒形の石を乗せた風変わりな墓碑があった。梢風の妻役として葬儀を取り仕切った愛人絹江がよく見かける角柱墓の陰気さを嫌って、夢に見て思いついた形を取り入れたのだそうな。梢風没後の翌年に亡くなった妻そうも、鎌倉の家でひとり住まいを続け、よく訪れていた覚園寺先代和尚未亡人宅の浴室で平成七年になくなった絹江もこの墓には納まってはいないそうなのだが………。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


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