るびりん書林 別館

「★「阿修羅」の呼吸と身体―身体論の彼方へ」勇崎賀雄 (著)(現代書林 2006年1月)

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■脳化社会などと言って澄ましてはいられない現代人にとって、これはなかなか大変な本だ。■

会社に通うのも、新聞記事を評論するのも、受験勉強に精を出すのも、病気を治療しようと医者を選ぶのも、生物として存在し、身体を持つ私たちである。その意味で、この本は現代社会を生きる万人にとって無視できない存在である。私はそうとらえたのだが、この本のすごさを適切に語る言葉を知らない。ちなみに具体的な呼吸法についてはほとんど触れられておらず、古今東西の思想や、人類史、医学、解剖学などを踏まえ、呼吸法の実践と指導を通じた身体知を織り交ぜながら、なぜ呼吸法が現代人の直面する身体状況が産む問題を解決するのかを解説する内容になっている。

「言葉」は人類を人類たらしめている存在だが、言葉の本質について考えたことのある人は少ないのではないだろうか。たとえば、本書の序章では、言葉に重きを置くキリスト教が身体性を排除していく一方で、仏教は最初から身体と言葉の問題を深く洞察し、常に注意を怠らなかったと指摘している。このことは、私たちの生き方にキリスト教的価値観が強く影響するようになればなるほど私たちは身体性を失い生きづらくなることを示してもいる。また、仏教だけでなく、道教もまた身体性を前提としているという。

「痛み」もまた私たちに多くのことを教えてくれる。痛みは不快ではあるが、痛みによって私たちは身体からの警告を受け取っている。私たちが痛みどめによって痛みを抑える生活を続けていけば私たちの生はさらに苦しいものとなる。長い目で見れば、私たちが痛みを排除しようとすれば、生物として存在できなくなっていくのである。

幼少期の取っ組み合いのけんかはどうであろうか。これもまた私たちにとって重要な意味を持つ。著者は、小中学校男子の取っ組み合いを禁止したばかげた社会は現在日本だけであると指摘する。そのような不自然、不健全な社会はありえないのである。

このような著者が高く評価するのが鎌倉時代である。<ことば>による身体の<非自然化>が進んできた中で鎌倉時代において身体性が復活し、それを背景として仏教、行法、禅が流行したことを指摘しているのである。この時代の体と現代人の体には野生動物と家畜に例えるような差異があるというのである。

著者はしかし、視覚情報に頼る部分の大きい当時の行は、脳化の進んだ現代人にはそのままでは適用できないともいう。視覚情報は脳と結びつきが強すぎるのである。

著者は人類をどのような存在であると考えているであろうか。そのために著者はプレート・テクトニクスや骨の進化、意識的に声を出す能力の獲得といった幅広い知識を活用している。理論が正しいかどうかはともかく、この部分は興味深い独自の理論となっている。

私たちの体は、内臓系と体壁系によって構成されている。内臓系はカオス、外壁系はコスモスであり、内なる混沌と外なる秩序、内なる自然と外なる理論として整理できる。大脳の発達は外なるコスモスの拡大につながっている。コスモスによって発達した文明社会が<カオス>を無視するから人は精神を病むのであるという。

本書は430ページという厚い本だが、当初書いた内容は1500ページに及んだという。それでは読み手はいないということでほとんど書きなおすことになり、一生忘れられない荒行となったという苦しみの末に生み出されている。膨大な参考文献と長い実地経験に基づくだけに濃い内容になっている。しかも、そもそも体内の自然とは決して決別できない存在である私たちにとって、深く関係する内容ばかりなのである。私はほとんどのページに付箋を貼ってしまった。

著者は、人間の超越性を前提として本書を編集しているが、その点に関して私は異論がある。本書の弱点の一つは、いわゆる良識があるとみなされている出版社からの本に多くの情報を頼っていることである。陰謀論を知ってみればそのような本に頼ることは危険である。本書でも、著者がことばの否定的な面に気づきながらことばを信じて、最終的に人間の超越性を認めることになってしまった背景には、この点に原因があると私は考えている。人は生物である以上、そして身体を離れることができない以上、ことばは否定的な効果しか与えないのではないかと私は考えている。しかし、本書はやはり、脳化社会を生きる現代人にとって、欠かすことのできない情報を与えてくれる大変な本なのである。

本書を読みながら思い出した主な本
覚醒する心体
「氣」の威力
内観法
図説東洋医学 基礎編
白隠禅画をよむ―面白うてやがて身にしむその深さ
新・人体の矛盾
はだかの起原―不適者は生きのびる
イシュマエル―ヒトに、まだ希望はあるか
ピダハン』(直接経験を極めて重視する言語世界)
人間が好き』(生命の宿命に抗わない生き方)
催眠法の実際
自己暗示
宇宙無限力の活用
アワ歌で元気になる 驚きのコトタマパワー

内容の紹介


  通常、わたしたちは、"もの"があって、それを表す"言葉"があるというところから出発する。そして、一端"言葉"を使い出すと、今度は"言葉"に普遍的な"概念"があるので、その"言葉"に対応する"もの"が不変の実体として存在するように思い出す。
  もう少し正確にいえば、"言葉"で表そうとする現象世界の背後に本体の世界があって、その本体の世界は不変で実在すると思ってしまうのである。こうした世界の捉え方を実在論、あるいは実念論という。実際、世界の有り様をこのように捉えたのがアビダルマ仏教(部派仏教)の立場であった。やがて"般若"の思想、"空"の思想と呼ばれる初期大乗仏教が興りこの考え方を厳しく否定することになる。"言葉"に対応する実体的な存在などあり得ないというのである。 - 142ページ

我が家の猫たちが言葉の無意味さを教えてくれました。「正義」や「美」を他者と共有することは、あらゆる可能性の中からただ一つの可能性を「正」としてしまうことを意味し、それが人類だけを生命の世界からのけものにしていくのだということを。

  「観想」とは仏教的なかならずしも特殊な行法を必要とするものではない。しかしまた、現在の人が、簡単に頭の中にイメージしたり想像するというものでもない。ここには微妙に宗教的といわれるものと、あるいはわたしが超越性というものとの接点があるということだ。
  これを宗教的にいわなければ、つまり身体的にいえば集中力がある段階まで高まっていくと、軽く目を閉じた状態で、能の中に映し出される視覚像が、明らかに質的な変化を起こすということである。色彩も変わるし、形や景色そのものも質的に変化する。しかし、この時の身体の状態を象徴するのには視覚像を用いるのがもっとも質的な変化として。ある意味分かりやすい。もちろんその時、皮膚の感覚も、聴覚も、臭覚も味覚も変わっている。しかし、視覚の質的変化が最も明瞭で安定している。なぜならば、視覚と脳は直結しているので、視覚の質が変われば、脳の状態が変わったことを表しているからである。例えば、幻聴というのは、ちょっとした脳の変化によって生じるが、幻視というのはかなり質的な変化が生じないと起こらない。それが、高度な頭脳の営為と結びついた視覚という感覚の特長なのである。 - 272-273ページ

自己暗示や催眠を知ってみると、この状態は意識変容という意味で共通していることがわかります。また、ピダハンが集団で精霊の姿を観ることにもつながっていきそうです。

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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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