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★「「氣」の威力」藤平 光一 (著)(講談社 1990年4月)

→目次など

■「氣(気)」を含むたくさんの表現を持つ日本語。その意味がわかった氣がします。■

1990年に発行され、2014年に新装版が出たこの本は、確かに読み継がれるべき本であると感じました。古い本ですので、登場人物は古いですが、王貞治の一本足打法も、広岡監督時代の西武ライオンズの強さも、千代の富士の右肩脱臼が治ったのも、藤平氏による氣の教えがあったと知れば、興味をひかれないではいられません。

著者は、心身統一合氣道の創始者であり、合氣道10段です。本書では「氣」とは何かから、氣の実際(スポーツ選手の活躍などに見る氣の効果)、著者が氣を体得した経緯(幼少期、軍隊時代、海外での活動など)、そして氣を応用した生活へと話が進んでいます。

目から鱗の落ちるような言葉が多くあったのですが、特に、心と体が本来一つであるということについて次第に腑に落ちてくるような内容になっていました。

「体の密なるを心といい、心の疎なるを体という」という言葉があるが、密度の濃いのが心で、うすいのが体である、と覚えておけばよい。

本書には、この心と体の一体性を示す内容がふんだんに収録されています。リラックスするには指先ブラブラ体操がよいというのは、体から心への影響ですし、注射をするときに一瞬意識を別のところに向けさせると痛みを感じないということも体と心の一体性を示しています。足が温かくなっていくとイメージすると眠れるというのは心から体への働きかけでしょう。相手の良いところを見つけてほめれば、意識も行動もそのように変化していき、ホラを吹く(大きな目標を掲げる)ことや自己暗示によっても心と体の両方が影響を受けます。

こうした大きな可能性を秘めた「氣」を生かすのが「天地の氣に合する道」である合氣道であると著者はいい、そのためには心と体を統一する必要があるといいます。本書の説明に従ってヘソの下10cmほどにある臍下の一点(丹田のうちの一点)に心(意識)をしずめて集中してみてください。

まず正坐の状態から一度、腰を上げて立てひざになってほしい。次に肩と腕の力を抜く。それから軽く腰を下ろす。このとき重みを足のかかとのほうにかけてはいけない。そして、もう一度肩と腰の力を抜く。このとき、全身の重みは体の最下部にあるわけだが、上体の重みが落ちつくのは、ヘソから下、約一〇センチぐらいのところである。昔から「ヘソ下三寸」と呼ばれてきたところだ。
この一点を指で押さえ、下腹に力を入れてみる。もし、力を入れることができたら、その一点は高すぎる。もう少し下に力を入れようとしても入らないところがある。そこが臍下の一点なのである。ここに心をしずめるのである。

こうして丹田に力を込めるのではなく心をしずめることで、姿勢が正され、声を張りやすくなっているのではないでしょうか。

私たちの肉体が心と不可分である以上、この事実から目をそむけるのではなく、逆に心と肉体の一体性を生かす方向に進むべきでしょう。そのための貴重な情報を本書から学ぶことができます。

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内容の紹介


なぜ「気」を「氣」と書くのか
  ここまで読んでこられた方は、すでにお氣づきだろうか。私は絶対に「気」とは書かない。旧漢字で「氣」と書くことにしている。というのもこのほうが氣の正しい意味を伝えることができると思うからだ。
  もともと漢字が絵から発達した象形文字であることはご存知だろう。「氣」の上の「气」は、天体をかたどっている象形文字だ。昔の人は、雲が交わっている状態をこのようにかたどった。そして、下は「米」とした。米は人間の食べ物のなかでは中心となる食物である。だから、天体と米で「氣」という文字になる、などと説明している学者がいるが、そうだろうか。
(中略)
  「米」の形をよく見ていただければ、中心から八方に広がっている状態を表しているのがすぐおわかりだろう。つまり、天体のように八方に無限に広がって出て行くもの、これが「氣」という意味であり、氣とは出すものなのである。
(中略)
  しかし、もともと氣はためるものではない。氣は出すから入ってくるのである。天地(宇宙)の氣と人間の氣が交流することを「息」というが、息が一時的にとだえれば氣絶する。永久にとだえてしまえば死ぬ。つまり天地の氣と人間の氣の交流が止まったときが死なのである。
  人間は生きている間は、いつも氣を出していなければならない。氣を出すから新しい氣が入り、出しているから天地と交流して「生きている」ということになる。それが氣の使い方なのであって、そうなると「気」を用いるのはおかしいことになる。だから、私は「氣」と書くのである。 - 25-26ページ

氣も出して初めて新しい氣が入ってくるというのは、息は吐かなければ吸えないとか、疲れるからと引きこもっているだけでは、ますますエネルギーがなくなっていくといった状況と似ていると感じます。このような無限に広がる氣のイメージを持つだけでも、元氣が出てきそうです。


坐禅では「鼻とヘソ」ではなく、「天帝と臍下の一点」が相対するべき
  仏像を見ると、みな眉間の中心に丸いものが描かれている。水晶やルビーなどの珠玉が埋め込まれているものもある。この位置を仏教では「白毫相(びゃくごうそう)」、易学では「天帝」といい、天地の氣が入る大切なところとされている。そのため、珠玉が入れられているわけだ。
  そうであるなら、坐禅は本来、この眉間の中央、つまり天帝と臍下の一点が相対(あいたい)するように坐らなければならないところだ。ところが、『坐禅儀』に述べられているように、「鼻とヘソを相対(あいたい)し、耳と肩をを相対するように坐る」と、じつに不自然になってしまうのである。
(中略)
  『坐禅儀』の著者は、自分では正しく坐っていたのだろうが、おそらく教えるときに間違ったのである。たぶん坐っているとき、半眼にしていると鼻先が見えた。それで、下にはヘソがあるから、簡単にヘソと鼻と相対すといってしまったのだろう。だが、自然にそうなっているのと、意識してそうするのとでは、天と地ほどの差がある。先人のちょっとした油断が、後世に大きな間違いとして残されたのである。 - 61-62ページ

本書にあるようにヘソの下10cmあたりに意識を集中させると、確かに肝が据わるように感じます。本書の魅力の一つは、ここにあるような、一般に流布している情報の誤りがわかりやすく指摘されている点にあります。


藤平式氣の呼吸法で記憶力・集中力を養う
  私の師・中村天風先生は、美術館などで、数分間、絵をジーッと見つめたあと、家に帰り、そのままそっくりの絵を模写することができた。人は先生の記憶力・集中力に舌を巻いたが、心身統一の力を応用すると、このようなことも可能となるのである。
(中略)
  後でくわしく説明するが、"藤平式氣の呼吸法"を修練し、心がしずまるようになると、放っておいても氣が出るようになる。このとき、本を読むと、両眼から出た氣が、ページの上でピタリとピントが合う。頭脳に明瞭に写るわけである。つまり、頭によく入り、なかなか忘れない。
  氣を引っ込めて本を読むと、両眼から氣も出ず、覚えたつもりでも、試験場へ行ってから思い出せないことがある。ダラダラと長い時間勉強するのではなく、心身統一の明瞭な心の状態で、短時間に集中的に勉強する習慣をつけたいものである。 - 234-235ページ

文字のなかった時代や、言葉のなかった時代、今よりもずっと記憶力がよかったのではないでしょうか。その頃の人々は、心身を統一する方法を知っていたのかもしれません。


病氣がなおる氣圧療法とは何か
  体の氣が天地の氣と交流していることを「生きている」といい、氣を出すから新しい氣が体内に入ってきて、交流がよくなるといった。では、その交流をよくするにはどうしたらいいかというと、すでに何度もお話ししたように、天地から与えられた心と体を統一しなければならない。
  心身統一とは人間にとってもっとも自然なものであり、これほどすばらしいものはない。だからこそ私は、心身統一を一人でも多くの人に教えることを天職と考え、これまで日夜努力をつづけてきたのである。だが、ケガやさまざまな症状で苦しんでいる人たちのなかには、心身統一法を教えてあげても、もはやそれを実行する氣力までもが、失せてしまっている人がいる。
  そういう人に対しては、外部から氣を補給して、生命力を盛んにしてあげることも必要になってくる。すると、自然治癒力が高まって、病氣やケガが治るようになる。あがってしまった車のバッテリーに外部から電氣を補給してあげれば、ふたたび車が動き出すのと同じことである。
  この外部から氣を注入する方法を私は「氣圧法」と名づけた。「氣圧」などというと、気象台でいる「氣圧」を連想する人もいるかもしれないが、それとはまったく関係ない。 - 246-247ページ

自己暗示、催眠法、アフリカで今も信じられている魔術など、人の体は「氣」の影響を受けて変化します。マスコミの標的となって体調を崩す人や、役割性格と呼ばれているものなど、実は「氣」に関連する現象は重要な機能を果たしています。氣を軽視する言説にごまかされることなく真摯に受けとめたいものです。



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