グリンウッドの思い出(1)

熊井 カホル

Dec. 1, 2000

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1.グリンウッドに出発

私の生涯で一番の節目の時を迎えたその日。 なんとまの悪い日になってしまったことでしょう。 1989年2月10日 夫がサウスカロライナ州にフジフイルムのオフッセト印刷版製造工場をゼロから建設し、 稼動を立ち上げる責任者として赴任しその後を追い三ヶ月遅れの日でした。 親戚中が成田へ見送りにきてくれたというのに、 80歳の私の母は、涙まで流して私を見送ってくれたのに、デルタ52便は整備不良のため、 その日のフライトが取りやめになってしまったのでした。 翌日は成田山新勝寺に詣で旅の安全を祈願し、 なんとか夕方までの時間をつぶしたのでした。

 さあいよいよアメリカ行き本番の時がやってきました。息子と娘夫婦がもう一度見送りに来てくれました。  よかった。 たったひとりでゲイトを通るのはやっぱりさびしすぎますもの。  夕方成田を出たジェットはあっという間に日の出を迎えポートランドに着きました。 初めてのアメリカ大陸です。  言葉の不自由な国への一人旅、不安と誇らしいい気持ちがないまぜになって、ほとんどねむれませんでした。  北米大陸は私の第一歩を歓迎してくれたのでしょう。 眼下に雪を抱いたロッキーの山並みがくっきりと、 偉大なアメリカを誇示するかのごとく、でんと横たわっているのでした。 実に美しかった。

 夕暮れはすぐにやってきました。 大都市の様相を示す街の灯り、車のライトの流れ、翼の下に見えてきたのは、まことに、 秩序だって見える大都市アトランタでした。 どんなにたくさんの女性が「風と共に去りぬ」を読んでこのまちに憧れたことでしょう。  夫が空港に迎えに来てくれていました。 緊張もホット解けました。

翌日小さなローカル飛行機に乗り1時間ほどして到着したのがグリーンビルでした。 成田にくらべると小さな小さな空港でおんぼろで、 とても悲しくなってしまったったのが忘れられません ( 後にこの空港は新しく改装され、初めて降り立った人に、 悲しい思いをさせないほど立派になりました )。

グリーンウッドは遠い。 この空港から更に南へ1時間のドライブでやっと着きます。  100キロほどあるでしょうか。 うわあ、背の高い松だ。 着いたのです。 我が家に。 松の高さは20メートルはあるでしょう。  日本の松のイメージはまったくあてはまりません。 ただすくすくと何の悩みもなく天に向かって伸びていった松です。  松かさは赤ん坊の頭ほどもある大きさでした ( 左上の写真は我が家と裏庭の松林 )。

美しい小鳥達のさえずりが空から降りそそいできます。このような天下一品の野外コンサートは生まれてはじめての経験でした。  この季節はまさに小鳥たちの結婚のときだったのです。 後に友達とよく 「 まるで軽井沢にきたみたいね 」  と言い合ったものでした。

のちのち Greenwood の印象はとたずねられると 「 美しい小鳥達のさえずり 」 と答えるのが常でした。  みなさま、博学でいらっしゃるからご存じとおもいますが、さえずりと言う言葉は、 小鳥の雄と雌が互いにもとめ合うときの鳴き声のことなのだそうですね。  この時まで私は小鳥の鳴き声はみんな囀りだと思っていました。

さてびっくりしたことに、車から降り立つと、 庭先の GREENWOOD WELCOMES THE KUMAI'S. という立て札が私達の目に飛び込んできたのです。 Greenwood の人達の目一杯の歓迎の意が伝わってくるのでした。  そして、しばらくすると籠一杯のフライドチキンを抱えた男性一人と、大きなアイスティーのボトルをかかえた女性二人が、 These are Southern hospitality. とたずねてきてくれたのです。

 私はすこし英語の勉強をしてきたし、挨拶ぐらいはおちゃのこさいさいのつもりでいたのに、 初めて英語を交わすアメリカ人に出会ったとたん How do you do ? が全くでてこず、 あわててその場で夫にたずねたことも忘れられないことの一つです。  ( 日本では初対面の人には How do you do?  と挨拶するものだと教わりましたが、彼の地でこの言い方を耳にすることは、ほとんどありませんでした。  Nice to meet you.が一般的でした ) 一方 Southern hospitality はその後、ことある毎に耳にする言葉となりました。

1989年のことですから、日本の経済が頂上をきわめていたころです。 失業率をさげてくれる日本企業のアメリカ進出は、 とてもよろこばれたのです。 そんな事情もあって、会社に関係のある銀行の方々が盛大に welcome に来てくれたのかもしれません。  しかし今思い出しても、半分は本物の Southern hospitality だったと思います。  心やさしい人達がたくさん住んでいるのが South(南部)です。

2.運転免許のこと

さて、この国で生きてゆくには車の運転ができなくては、話になりません。 サウスカロライナ州には、電車もバスも走っていません。  この州の広さはざっと北海道ほどあるそうですから、どこへ行くにも自分の車で移動するしかないのです  ( 子供の通学には school bus があります )。

日本から持っていった国際免許証は一般的には6ケ月有効ですが、このサウスカロライナ州では、3ケ月しか有効ではないのです。  翌日から夫による実地練習がはじまりました。 運転席は左。 右側通行。 subdivision (*) のゲイトで、 夫から 「 銀行、郵便局、会社は右だよ。左はウインデイキシー (  スーパーマーケット ) と何遍となく教えられましたが、 なかなか街の地図を鮮明に頭に描くことが出来ません。 翌日初めての町を独りで走る時は、緊張で腕がつっぱってしまいました。  そのうえ、いくら走っても漢字もひらがなも見えてこない町。

この事は異国に来たことを強く実感させられる事柄でした。 周りを見る余裕など全くありませんでしたが、、煉瓦造りの立派な教会が、 どうしてこんなに沢山あるのだろう!ということだけは、強く印象にのこりました。

次は、先ず日本と同様に、法規を学ばねばなりません。 私は、 新しくグリーンウッドへ赴任して来た日本の社員が勉強する機会に便乗させてもらうことにしました。  先生は州の運転免許試験場からきてくださいました。 説明は、当然のことながら、全部英語です。  サリーさんが通訳をして下さいました。 サリーさんについては、また後に述べることがあるでしょう。  彼女は、久恵という名で、アメリカ人と結婚し三人の素晴らしい子供を育てあげ、大きな農場のある家を切り盛りしてきた素敵な女性です。

私にはチンプンカンプンの英語を、こともなげに通訳してくれるサリーさんが、 私とは、異種の脳味噌を持っておいでではないのかと、 実に羨ましかったものです。 英語で書かれたタブロイドサイズの法規集を暗記しなければ、試験を受けられません。  初めてお目にかかる言葉が、なんと沢山あることでしょう。 新しい単語が出てくる度に辞書を引き、そこに指をはさみ、 次の単語、また次の単語と、四つまでは、指がつかえます。 もう一本指が欲しいくらいでした。

そんな風にしてやっと1センテンス理解する、というようなことを繰り返して覚えました。 また、私達が英語だと思っていた、 車の部分の呼称は和製英語だったという発見もありました。例えばバックミラーは rear view mirror、 フロントガラスは  windshield、ハンドルは steering wheel というぐあいです。

いよいよ、4月5日 法規の試験をうけに行きました。 英語の試験ではありませんから、試験中に辞書をつかってもかまわないし、 時間の制限もありません。 25問中20問正解で、合格なのだそうです。 しかし、この日の試験には、見事失敗しました。 残念・・・

翌日は ( 免許に関係はないのですが、世界中のゴルファーが一度は見たいという )  オーガスタでのマスターズ・ゴルフトーナメントを見に行った時の話をちよっと。 夫が美容院で髪をカットしてもらいながら  「 今日はこれからオーガスタに行くんだ 」 と話したのだけれど、一向に通じなく、この美容師さんは、オーガスタ  ( 隣のジョージヤ州にあり、この町から70分ほどで着く ) にも行ったことがないのかと思っていると、何度目かに  「 ああ、アガスタね 」 といわれ、なるほどオーガスタはアガスタ ( ガ にアクセント ) か。と納得したそうです。

都市の発音について、私も一つ経験したことがあります。 私の英語の先生のアダムズさんとデイズニーランドの話をしているときに、 先生が、オランダ、オランダとおしゃるので、なぜアメリカにオランダがあるのだろうと不思議に思ったことがありましたが、 このオランダとは、日本語でいうオーランドだったというわけです。 アトランタもなかなか、難しい発音で、何回も練習させられました。

マスターズゴルフでの第一印象は、観に来ている人たちの服装が明るくて、ピンクやブルー、赤や緑と実に色さまざまで、 階段状になっている観覧席が、まるでパステル画の様だったことです。 当時、私の知っているゴルファーは、 トム・ワトソン,グレグ・ノーマン、ジャック・ニクラウスの三人ぐらいで、それも名前を聞き知っている程度でしたが、 またとないチャンスとばかりに、ワトソンについてまわりました。 彼が何位だったのかは、覚えていません。  この時の優勝者が誰だったのか、どんな花が咲いていたのかも全く覚えていません。  当時の私の頭はコンクリートの城壁で囲いこまれている様な奇妙な感じで、非常に、柔軟性に欠けていたような気がします。

このトーナメントにあわせて、このゴルフ場が花いっぱいになるよう気をつかっているそうです。近年の暖冬現象で、 どうしてもつつじや、ドッグウッド ( アメリカ花みずき ) などは、早く咲いてしまうので、 根元に氷をまいて開花を遅らせるなどというアメリカらしい話を聞いたことがあります。

さて、免許の話に戻りますが、この翌日、再度試験に挑戦しました。みごと合格です。 どんな試験でも、合格は嬉しいものです。  なんていったって、英語で受けた免許試験ですから。 しかしまだ、実地試験が残っています。 ここでは、試験場が空いていれば、 そこでいくら練習しても構わないのです。 実におおらかでありがたいことでした。

私の苦手な縦列駐車のことですが、夫の掛け声で、何べんも何べんも練習しました。  日本では、縦列駐車をしなければならない所には、 絶対に車をとめませんでした。 要するに、縦列駐車できなかったのです。 練習の甲斐あって、なんとか出来るようになったので、 いよいよ実地を受けることにしました。 実地試験は自分の車で受けます。 私の車は真っ赤なカローラ。  試験官は40歳くらいのやさしそうな女性でした。 試験場では、30メートルのバックとか、 車庫入れなど5種類くらいの技能を試されます。 さあ、いよいよ縦列駐車の番です。

失敗です。 優しい先生は Try again. と言ってくださるのですが、 また失敗。 更にもう一回チャンスをくださいました。  三回もやらせてくださったのです。しかし、不甲斐ない私は、またもや失敗したのです。  ああもう今回は絶対に駄目だと諦めると、ずいぶん気が楽になりました。 あとは街中を走って、交通標識や、 スピードなどが守られるかなどを試されます。 もうそろそろテストコースも終りかなと思う頃、先生は、Pull over.と申されるのです。  この意味が分からなかったのです。 Pardon me? と尋ねても、返ってくるのは Pull over(**).

私の知っているPull over. は、とっくり襟のセーターです。本当に困りました。  Pull over.とはどういう意味ですかと尋ねれば良かったのでしょう。 しかし、当時まだそんな余裕はありませんでした。  先ほどの縦列駐車ができなかったから、もうここで降りてしまいなさい、という事かな、と思って、ドアを開けて外に出ようとすると、 先生はびっくりした顔つきで、No, No, No. 入れとおっします。 こんな奇妙な行動に出る人は、多分前代未聞だったことでしょう。 ここまで失敗を重ねれば、誰だって不合格を確信します。  試験を終えて、合否の知らせがあるまで二十分くらいありました。 その間、次までにしっかり縦列駐車の練習をして、 1週間あとに再度挑戦しようと考えていました。

しばらくすると 「 カオル クマイ 」 と、アメリカ英語特有のアクセントで名を呼ばれ、行ってみてびっくり。  なんと 「 合格 ! 」 だったのです。 縦列駐車は自分でよく練習しておくように、という伝言つきで。 信じられないような気持でした。  感激です。 しかし、何はともあれ、アメリカ生活での第一難関は突破したのです。

 ここで写真を撮ってもらい、20分もすると、その場で免許証が交付されました。 なんて素早い対応でしょう。  アメリカの効率の良さと、利用者の身になってくれるやり方がとても新鮮で、日本もこのような点を、 万分の一でも早く学んで欲しいものだと思いました。

スタンドでガソリンを自分で入れるのも、最初はこわごわでした ( 写真 ) が、4回目くらいから、自信がついてきました。

*:subdivision とは、囲いで囲われた、中・高級住宅専用区域のこと

**:pull over とは、道端に寄せること

グリンウッドの思い出(その2)に続く。


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米国サウスカロライナ州グリンウッドでの7年半の生活の思い出を、以前から少しずつ書きためていました。  最初はプリントにして親しい友人たちだけに読んでいただいていましたが、白黒のゼロックスプリントでは、 美しい写真が思うように伝わらないし、迷ったあげく、夫の勧めにっ乗って、勇気を出して載せてみることにしました。