水村美苗作品のページ


1951年京都生まれ。12歳の時家族と共に渡米。イェール大学仏文科卒、同大学院仏文科博士課程修了後に帰国。その後、プリンストン大学講師、ミシガン大学客員助教授として日本近代文学を教える。90年「続明暗」にて芸術選奨文部大臣新人賞、95年「私小説 from left to right」 にて野間文芸新人賞、2002年「本格小説」にて読売文学賞、09年「日本語が亡びるとき」にて第8回小林秀雄賞、12年「母の遺産」にて第39回大佛次郎賞を受賞。夫君は経済学者の岩井克人氏。


1.
続明暗

2.手紙、栞を添えて

3.本格小説

4.日本語が亡びるとき

5.母の遺産−新聞小説−

 


   

1.

●「続 明暗」● ★★     芸術選奨新人賞


続明暗画像

1990年09月
筑摩書房刊
(2000円+税)

1993年10月
新潮文庫化

2009年06月
ちくま文庫化

   

1990/09/20

 

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題名のとおり、漱石の未完作品「明暗」の結末を書いた“続編”です。
本書を読む直前に「明暗」を読み返したわけではありませんが、かなり漱石に似た雰囲気を出していて、よく書けているなあという印象を持ちました。会話の一言ずつが短いこと、文章が文きり調であること、形容詞に感じを使いたがること。漱石のみならず、明治期の小説の特徴だったように思います。

ストーリィは、漱石が書いても、そんなものになったのではないかと思われるものです。主要な登場人物は、津田、お延、津田の妹・、友人・小林吉川夫人、そして清子
そもそも、漱石の原作自体、つまらないことを津田がいつまでもくどくどとこだわっているというもので、後半のストーリィも更につまらないまま展開するというのは、当然だと思います。
結婚する寸前のところで振られた相手・清子を、こともあろうに吉川夫人のそそのかしにうまうまと乗っかり、新妻のお延を放り出して温泉地へ追いかけていく、というところまでが漱石の原作。
書き継がれたストーリィは、清子に再会しながら、言い訳するばかりで肝心の質問をしない津田。吉川夫人のわざとらしい暴露により、津田を追いかけて温泉地に向かうお延。更に、秀と小林もそれを追う、というもの。秀と小林に問い詰められても、津田は自分の面目を保とうとするばかり。津田には、まずお延に謝るという思いやりも、秀と小林の言に従うという素直さもない。
お延はそんな津田という男を選んだことに絶望して、滝に身投げして自殺しようとしますが、夜明けの姿に身投げを思いとどまる。そこでこの「続編」は終わっています。もっとも、自然の雄大さに比べれば自分の身の不幸などは些細なものでしかない、という論理は、現代的なもののような気がします。

この作品で最も感心したことは、何故清子が津田を見限ったかという問題に対して、解答を出したことです。「貴方という人は、最後のところで信用できない。結局、吉川夫人の言いなりになって、延の気持ちを考えないで行動するようなところがある..」 
鋭い指摘です。読む側からしても、津田という男の行動には何となく不快感を覚えますが、それを的確に表現した言葉です。
この答えを出しただけでも、「明暗」は完結し得た、と言えるのではないでしょうか。

   

2.

●「手紙、栞を添えて辻邦生共著) ★★★


手紙、栞を添えて画像

1998年03月
朝日新聞社

2001年06月
朝日文庫
(640円+税)

 

2003/11/22

なんと贅沢な一冊でしょうか。それもまあ、お手軽な文庫本であるというのに。オフ会で戴いた本なのですが、そうした経緯から魅力あふれる本に出会えるというのは、嬉しい限りです。

本書は、辻邦生さん、水村美苗さんという文学に精通したお2人による、文学を語った往復書簡集。1996.1.7〜97.7.27
お2人の語る文学論を読むことも楽しいのですが、それ以上に“文通”という楽しさに魅せられます。
現代のように、電話、電子メール等が普及していなかった時代、見知らぬ相手との文通は、どんなに心躍るものであったことでしょう。それを全うするため、お2人は会うことのないまま、手紙のやりとりを始めたとのこと。お2人にそれだけの心意気があるからこそ、読み手もその楽しさに心奪われる、と言えるのです。

2人の間で取り上げられるのは、国内外の今や古典的とも言うべき名作の数々。学生時代に、よく理解もできないまま盲目的に読みふけった作品が幾つもあります。
水村さんは大胆に論じ、辻さんは鷹揚に受け止める。そんな名調子に、新たな興奮を感じることも度々。そして、こうした作品を貪るように読んでいた学生時代の、何と輝かしかったことかと、今更ながらに思うのです(おかげで恋愛ごとには全く無縁でしたが)。

※本書でとりあげられた作品を下記のとおり。それらを見ればこれ以上本書について語る必要はないでしょう。

   

「手紙、栞に添えて」に取上げられた作品は次のとおり。青字は読んだことのある作品です。

水村美苗「続明暗」・「私小説」、辻邦生「西行花伝」、ディケンズ「ディヴィッド・コパフィールド」・「大いなる遺産」、吉川英治「宮本武蔵」、スピリ「アルプスの少女ハイジ」、オルコット「若草物語」、夏目漱石「坊っちゃん」、グリーン「失われた幼年時代」、J・ブロンテ「ジェーン・エア」、E・ブロンテ「嵐が丘」、二葉亭四迷「浮雲」、国木田独歩「忘れえぬ人々」、スピノザ「エチカ」、スタンダール「赤と黒」・「パルムの僧院」、樋口一葉「にごりえ・たけくらべ」、フローペール「ボヴァリー夫人」、中勘助「銀の匙」、バルザック「書簡集」、谷崎潤一郎「細雪」・「春琴抄」、「芥川龍之介全集」、永井荷風「摘録断腸亭日乗」、「ヘンリー・ミラー全集」、サンド「愛の妖精」、トルストイ「アンナ・カレーニナ」・「イワンのばか」、ドストエフスキー「貧しき人々」・「罪と罰」・「死の家の記録」・「地下室の手記」・「悪霊」・「カラマーゾフの兄弟」、ゴーゴリ「外套・鼻」、マン「ブッデンブローク家の人びと」、プルースト「失われた時を求めて」、リルケ「マルテの手記」、チェーホフ「中二階のある家」、幸田文「父・こんなこと」・「幸田文対話」、ラディゲ「ドルジェル伯の舞踏会」、太宰治「津軽」、ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」、ゲーテ「南イタリア周遊記」・「イタリア紀行」、ルソー「孤独な散歩者の夢想」、ソポクレス「オイディプス王」、アリストテレス「詩学」、ダンテ「神曲」、ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化」、森鴎外「渋江抽斎」、ショーロホフ「静かなドン」、紫式部「源氏物語」、ボルヘス「伝奇集」、菅原孝標女「更級日記」、魯迅「阿Q正伝・狂人日記」・「魯迅選集」、カルペンティエル「バロック協奏曲」・「失われた足跡」、オースティン「高慢と偏見」

  

3.

●「本格小説」● ★★       読売文学賞


本格小説画像

2002年09月
新潮社刊
上下
(1800・1700円)

2005年12月
新潮文庫化
(上下)

  

2003/02/25

 

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本書を読む以前に、まず題名に戸惑いがありました。“本格”とは、いったい何を意味するものなのか。
まず「序」があって、それからプロローグとなる「本格小説の始まる前の長い長い話」があります。このプロローグが、冗談じゃなく本当に長い。まず長い、というのが本書の第一印象。
ただこの長さ、取っ付き難い印象こそ当初あるものの、読み始めれば全く気になりません。むしろ、物語小説本来の王道をいくものであって、この長さがあるからこそたっぷり楽しめる、という読み応えがあります。この辺り、ディケンズバルザックの作品にも通じる面白さでしょう。その意味で、本作品=“本格小説”なのです。

著者自身の思い出を皮切りに、祐介という青年と知り合い、その祐介が冨美子という女性から聴いた話を著者に語る、という筋立て。そして、冨美子が物語ったのは、かつて彼女が女中奉公をしていた旧家にまつわる出来事という、まさに本格小説にふさわしい設定です。
そしてストーリィの中心は、彼女の奉公先の娘と、その家で養われた不遇な青年との狂熱的とも言える恋情の経緯。まさに、E・ブロンテ「嵐が丘の現代版に他なりません。
ただし、本作品は恋愛小説であると同時に、重光家、三枝家、それに連なる一家を長年に亘って描く家族小説でもあります。その中で特に存在感のあるのが、三枝家の三姉妹。その3人、階級意識が強く俗っぽいところがありますが、一方で憎めない人の良さもあります。
トリックやストーリィ構成の妙ではなく、物語自体の面白さが本作品の魅力。そうした手法は、今や古典的と言うべきものでしょうが、久々に物語小説の醍醐味を味わえた、という満足感あり。

 

4.

●「日本語が亡びるとき−英語の世紀の中で−」● ★★     小林秀雄賞


日本語が亡びるとき画像

2008年10月
筑摩書房刊
(1800円+税)

 

2009/03/07

 

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本書表題の意味、副題を知ればある程度それは察することができます。
しかし、実際に読んだ本書の内容は、私の予想を遥かに超えて奥深いものでした。
日本語についてもっと深く考えてみなければいけないのかもしれない、そんな風に、眼を醒めさせられる気分になった一冊。

インターネットの普及、グローバル化の広がりによって今や普遍語の位置を獲得した英語。その英語と日本語を単に対極的に見比べるのではなく、言語という存在の成り立ちから考察を繰り広げていったところが、水村さんの面目躍如たるところ。
よく考えれば気づいたことなのかもしれませんが、学校教科の“国語”という表現によって目をくらまされていた多くの事柄。それが整理され、掘り下げられていくところに、塩野七生さんが語る“ローマ人”に似た知的好奇心を刺激されます。

日本人なら誰でもきっと、英語も自在に操れることができたらどんなに良いだろうと思う筈。でもそこで考える英語とは、道具としての英語。その英語と日本語を並べて考えるのなら、日本語は単に道具に成り下がり、固有の文化としての言語の意味を失うことになる。
日本語と一口に言っても、「話し言葉」としての日本語と「書き言葉」としての日本語は全く別の存在である、と水村さんは語ります。
極め付けは、漱石だったら今どう書こうとするだろうか、という問い掛け。
単に話し言葉、道具としての存在だけで良いのであれば、然程気にする必要はないのかもしれない。しかし、固有の文化を守ろうとするのなら、日本語をどう守っていくべきか、もっと腹を据えて考えていかなければならない、というのが水村さんからのメッセージ。
下世話に言えば、あるのが当たり前と油断していると、いつか足を掬われることになる、ということ。
読書が好きな分、平均的な人より言葉に関心を持っているつもりでしたが、考えはまるで浅かったのかもしれません。
書き言葉としての日本語を見つめ直すのに、格好の一冊です。

アイオワの空の下で<自分たちの言葉>で書く人々/パリでの話/地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々/日本語という<国語>の誕生/日本近代文学の奇跡/インターネット時代の英語と<国語>/英語教育と日本語教育

           

5.

●「母の遺産−新聞小説−」● ★★      大佛次郎賞


母の遺産画像

2012年03月
中央公論新社
(1800円+税)

2015年03月
中公文庫化
(上下)

 


2012/04/12

 


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「ママ、いったいいつになったら死んでくれるの?」
本作品を紹介するにあたって引用されている主人公のひと言ですが、衝撃的な一文です。
だからといって主人公が酷薄な娘、利己的な娘という訳では決してなく、ごく普通の女性です。
前半は、身勝手で見栄っ張りの母親に子供の頃から振り回されてきた娘2人が、母親を看取るまでの物語。
奈津紀美津紀(=主人公)の姉妹がこれまで母親=桂紀子の身勝手な振る舞いにどれだけ振り回されてきたことか。そして老いて今なお自分たちを性懲りもなく振り回し続ける母親の介護、世話にほとほと疲れ、冒頭のようなセリフをつい美津紀は吐き出してしまう。
そして後半。漸く母親から解放された美津紀が、気づいてみれば夫から離婚される寸前の状況に陥っており、そこから新たな出発を踏み出すまでの物語。
その新しい一歩を踏み出すチャンスを与えてくれたのが、母親の遺してくれた遺産金だったというのは、皮肉というべきか、それとも当然の対価であるというべきか。

副題に
「新聞小説」とありますが、実際に読売新聞に連載されていた作品。そのため一章一章が短くキリが良い。新聞小説の読み易さ、乗り易さを肌で感じた気がします。
もうひとつ、
「美津紀自身が新聞小説の落とし子であった」と語る部分があり、ストーリィ自体も新聞小説と因縁づけられていますが、それは余禄。

本ストーリィの母娘関係は極端な形で描かれていますが、老いて身体が弱り痴呆化も入り込んだ老親を、自らも既に中年から老年の域に至った子供が世話あるいは介護するという構図は、今の日本においては誰もが覚悟しなくてはいけない重い課題であると思います。
親はいったい何時まで生きるのか、いつまで介護という負担に耐え続けなくてはならないのか。それはいったい何のためか、誰のためなのか。もはや親子の情愛を越えたところにある問題のように思います。
自分自身にやがて降りかかってくることかもしれないという思いで読み進みましたが、“新聞小説”の所為か、面白く読めたのも事実。
現代日本社会における大きな問題を、小説という形を以て新聞に載せる、これぞ新聞小説に相応しい内容かもしれない、と思う次第。

    


 

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