修学院離宮、京都御所
Shuugakuin Rikyu, Kyoto Gosho
修学院離宮のハイライトともいえる浴竜池。堰堤でせき止めた人工湖です。まだ雨は降っていないけれど不穏な空。
京都には皇室関連施設があちこちにあり、それらは見学は無料なのですが、宮内庁への事前予約が必要ということになっています。まあ明治以前に天皇は代々ずっとこの地にいたのだからそういうものなのでしょう。人気の桂離宮は予約開始日に一気に埋まってしまうようですが、修学院はそこまでではないし、京都御所は比較的大人数を受け入れられることから取りやすい。そんなことから、今回は予約が取れた2施設を訪ねることにしました。 修学院離宮 |
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表総門を入るとこの風景が飛び込んできました。手入れの良さ、そして品格を感じます。8月なのに紅葉の予兆が。 | 上離宮に立つ雲隣亭。晴れていたらいい眺めでしょうね。足許に埋め込まれた小石がなかなかです。 | |||||||||
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雲の隣とは随分大きく出たと思っていたら、徐々に雨が近づいてきて、雲が棚引いてきました。もう少しで霧が雲隣亭まで届きそうです。 | 上離宮に行く道の周辺の水田。とても奇麗に耕作しています。ところでここで収穫した米はどうするのでしょうか。 | |||||||||
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雲隣亭から見た浴竜池。堰堤によって池を作った結果、その向こう側との高低差がかなり生じたというのが分かります。言わばダム湖になる訳か。下界が低くなりました。かなり登ってきたのですね。 | ||||||||||
京都御所
都市の真ん中に天皇の居住する場所があったのが京都、そしてあるのは東京ということになります。東京は江戸城西の丸や吹上火除け地あたりが明治以降皇居になったのに対し、京都は日本建築史図集によれば、「南北朝に里内裏のひとつであった東洞院土御門殿(ひがしのとういんつちみかどどの)の地で、以降ここが皇居となった」とあります。南北朝時代の混乱の中でそれとはいわずここに収斂していったのでしょうか。ちょっと北寄りの市街の中心、ロケーションは非常にいいといえます。まあ市街に起伏はありませんから、地形的特徴はありません。 しかし建物構成はよく分からないのです。建てては火災で焼け、また再建し、時にあちらこちらに移築し、また新築し・・・と非常にせわしなく複雑なのです。そして全体計画がしっかりしておらず、あちらこちらに半分気ままに建てられている感がします。シンボリックなのは正面の建礼門、承明門、紫宸殿と続く部分だけで、あとはばらばらというか、まるで増築を繰り返した地方の老舗旅館のような、といっては失礼ですが、そんな気もします。日本の都市内の建物の宿命としての火災によって、何度も増改築が成された結果なのでしょう。 そうした背景があるのですが、建築史図集によれば、寛政の造営にあたって復古が企てられたとあります。寛政年間といえば18世紀末期になるのか。この復古の結果によって、正面の一角が完成し、平安の雰囲気が今に伝わっているのでしょう。とすれば老舗の地方旅館ではなく、蘇った寝殿造だと言っておきましょう。 またここから各地の寺社に移築されたとものが多いというのも面白い。伊勢神宮は遷宮の度に建築部材を各地の神社にもっていって活用したのですが、京都御所では建物ごと移築し、本殿、拝殿、本堂、門などにしたとか。いやいや、日本建築の融通無碍さが何ともいえないですね。 本当はじっくりと建物の時代別変遷などを楽しみかったのですが、その建築や再築の複雑さと、見学時間の制約からどれが何時のものなのか分からなくなり、結局どうでもよくなってきてしまいました。建物の詳細よりは全体の雰囲気を味わう場なのかもしれません。 |