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伊藤若冲を訪ね
Spot of Ito Jakutyu

若冲を育ててくれた相国寺 これは法堂を正面から。あまり訪れる人も無くひっそりとしています。

伊藤若冲にとって、京都は世界のすべてでしたし、京都以外を知ることなく生きた人だったのかも知れません。その割りには、積極的に若冲と京都とを結びつける試みがあまり見えない気もします。2回の京都の探訪から、若冲のゆかりをピックアップしてみました。でも当然美術館も寺院も撮影禁止なもので、あまりいい写真が揃いませんでしたけれど。

 相国寺  35 01 57.24,135 45 43.06
 芸術家が世に認められるために、所謂パトロンの存在が重要です。ガウディにとってのグエル、印象派にとってのポール・デュラン=リュエルのように。そして若冲にとっては大典顕常でしょう。40歳で隠居し絵だけのために生きていくと決めた中、44歳の彼に鹿苑寺の大書院5間の障壁画を依頼したのが相国寺の和尚であった大典顕常であり、そこから若冲の才能が世に認められていくのです。でも何で相国寺の和尚が鹿苑寺の障壁画で登場するのかと思っていたら、何と金閣寺も銀閣寺も相国寺の山外塔頭なんだそうです。金閣は室町幕府三代将軍の足利義満が、銀閣は八代将軍の足利義政によって造られたのですが、それぞれの死後寺院となり、禅宗の本山であった相国寺が両寺院の運営を行っているとか。いやそうだったんですか。
 
 若冲はその後もこの恩に応えるべく、いや信仰に応えるべく創作活動を行っては相国寺に寄進を続けます。「動植綵絵」や「釈迦三尊図」などが有名な所でしょう。ところがその後の世の中の変化がこの寺を襲います。廃仏毀釈の波にのまれ美術品の流出が懸念される時に、この寺は動植綵絵をまとめて明治天皇に寄進、いや寄贈する道を選びます。その結果として動植綵絵を三の丸尚蔵館で見ることが出来る訳なのです。ウィキには「下賜金1万円のおかげで、相国寺は廃仏毀釈の波で窮乏した時期でも1万8千坪の敷地を維持できた。」とあります。いやいや若冲のお陰で今の相国寺が維持出来ているのですね。
 
 こんな荒波をうけた若冲の絵画ですが、出世作である鹿苑寺大書院障壁画は相国寺の奥にある承天閣美術館で見ることが出来ます。また釈迦三尊図も時期によって展示されていたりします。若冲のスタートを確認するのに実に相応しい場所なのでした。

 

庫裏。何となく禅寺という雰囲気があります。この右側から承天閣美術館に入っていきます。 振り返ってみると法堂があります。慶長10年(1605年)に豊臣秀頼の寄進によって造られたとか。
信行寺  35 00 43.64,135 46 41.08
 2015年秋の特別拝観の目玉とされたのが、この信行寺天井画です。若冲晩年の作ながら観光寺院でないため公開されておらず、最近の若冲ブームからその公開が期待され、今回踏み切ったとのこと。ここいらの経緯、そして写真が朝日新聞のページに載っています。確かにガイドブックには一言も登場しない寺院です。
 
 多分混むだろうという予想のもと、朝一番で訪ねることとしました。雨にもかかわらず既に入場待ちの列が。境内も撮影禁止という物々しさでした。一回待ちで道内に入ると天井が花卉図で覆い尽くされています。167枚が格天井の枡に収められている様はやはり壮観です。南北8段、東西21列、余り1枚という構成。この繰り返し展示技法はどことなく金刀比羅宮の「花丸図」を連想させます。植物をひとつひとつ丹念に書き、それを並べることによる効果を狙う。金比羅は背景が金ということもあり、非常に華やかですが、こちらは木目が見えるという素朴さです。
 
 この天井画ももともとは石峰寺の観音堂にあったのを、150年程前に移設されここに収まっているとか。今まで公開しなかったことにより保全されていたのが、痛むのを非常に住職は気にしていましたから、今後公開されることはひょっとしたら無いかもしれません。真上を向くという動作に困難を覚えながら、精一杯堪能しました。

外の道路からの一枚。人が三々五々集まってきます。 東大路通りと仁王門通りとのT路路に面しています。やはり電柱を何とかしてほしい。そして標識も、というのは無理か。
案内の看板これなら撮っていいでしょう。
特別公開拝観の手引きから。仏より上を見上げたくなる?

錦小路で見かけた看板。そうか、現代にスリップするとここになるのだ。