「家持歌日記」を読む 第一部3

三、天平十二年十二月九日

 長屋王の変と藤原光明子の立后によって幕を明けた天平の御代は、九年の疫病大流行と藤原四卿の死を経て、十二年、いっそうの混迷に陥ってゆく。すなわち、この年九月、大宰少弐に左遷されていた藤原広嗣が筑紫に謀反の兵を挙げたのである。広嗣が朝廷に送りつけた上表文は、唐から帰国後天皇の寵遇を得ていた僧正玄ム(げんぼう)(ボウの字は「日」偏に「方」旁)と下道真備(のちの吉備真備)を奸臣と名指し、この二人を除くことを要求するものだったという。挙兵の真意はともあれ、当時中央政界における寡占的な地位を失っていた藤原氏の不満と焦りが鬱積した果ての挙であったことは想像に難くない。
 隼人と西海道諸国の軍団を主力とする反乱軍は総勢一万数千、三方から関門海峡めざして進軍した。朝廷はただちに大野東人を大将軍に任命し、一万七千の兵を徴発して征討を命じた。国を揺るがす内乱としては、壬申の乱以来、実に六十八年ぶりの出来事である。家持が内舎人として正式に宮仕えを始めたのは、このような時機であった。
 十月初めには、海峡を間近にした板櫃河で反乱軍と追討軍が初めて衝突し、広嗣率いる賊軍は早くも瓦解の徴候を見せる。そのまま戦況は官軍優位のまま推移したが、十月末、聖武天皇は突如関東行幸を宣言し、伊勢国へ向けて出発された。俗に聖武天皇の彷徨とも言われ、さまざまな憶測を呼んでいる長途の行幸であるが、これが単なる緊急避難でなかったことは、旅の終りにおいて初めて明らかになる。家持は天皇の護衛に奉仕する内舎人の一員として、この行幸に従駕したのであった。

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(白マルは頓宮所在地、赤枠は家持が歌を詠んだ場所を示す)


 十一月二日、伊勢国河口行宮に至る。翌日、広嗣が捕獲されたとの報が筑紫から齋され、内乱は意外に呆気なく終局を迎えた。この後、家持は同僚との内輪の宴などで披露されたと思われる望郷の歌を詠んでいる(巻六)。
 乱が鎮圧されたのちも天皇は平城京に還御されることなく、伊勢国内の諸郡を巡って、十一月二十六日、美濃国当伎郡に入られた。養老伝説をつたえる霊泉の地である。家持はここでも宴歌らしきものを残している(巻六)。十二月一日、さらに不破行宮に到る。壬申の乱において天武天皇が指揮を振るわれた縁の土地である。六日、近江国に入り、九日、同国蒲生郡に至る。
 前章に見た七夕歌に次いで家持の歌日記に記載されているのは、この日、十二月九日の日付が記された、弟書持による連作である(左注の日付と作者名は、いずれも元暦校本による)

    追ひて大宰の時の梅花に和ふる新しき歌六首
  み冬継ぎ春は来たれど梅の花君にしあらねば(を)く人もなし
  梅の花み山としみにありともやかくのみ君は見れど飽かにせむ
  春雨に萌えし柳か梅の花ともに後れぬ常の物かも
  梅の花いつは折らじといとはねど咲きの盛りは惜しきものなり
  遊ぶ内の楽しき庭に梅柳折りかざしてば思ひなみかも
  御園生の百木の梅の散る花し天に飛び上がり雪と降りけむ

     右は、十二年十二月九日、大伴宿禰書持作る

 夭折した書持は、生涯官職に就いた形跡がなく、この時も佐保の自宅で兄の留守をまもっていたと思われる。乱が終結し、平静を取り戻した都にあって、ふと大宰府の昔を追想することがあったのだろうか。
 題詞に「大宰の時の梅花」とあるのは、言うまでもなく、天平二年正月十三日、大宰帥であった父旅人の邸における梅花宴(ばいかのえん)(巻五)を指している。全三十二首に及ぶ万葉最大の宴歌群であるが、書持によって追和されたのは、冒頭八首のうちの六首である(山上憶良と「豊後守大伴大夫」の歌は何故か追和されていない)。

  正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ 大弐紀卿
  梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも 少弐小野大夫
  梅の花咲きたる園の青柳は縵にすべくなりにけらずや 少弐粟田大夫
  梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり 筑後守葛井大夫
  青柳梅との花を折り挿頭し飲みての後は散りぬともよし 笠沙弥
  我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも 主人

 天平二年当時、家持は十三歳、書持は十歳前後だったろうか。共に宴席を間近に眺め得る場にいたはずである。
 大宰府の高官を含み、西海道諸国から集まった錚々たる三十二名が、「気淑く風和らぐ」春の日、「天を(きぬがさ)にし、地を(しきゐ)にし」て、「(さかづき)を飛ばし」つつ次々と園梅を賦してゆく、雅びな「遊びの庭」は、彼らの幼い眼に鮮烈に焼き付いた。

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 いわゆる筑紫歌壇とは、長屋王の変の前後、都の政争と喧噪を遠く離れ、偶々鎮西の地に流れ寄った文雅の人々が、奇蹟のように形作った「文学の離宮」であった。梅花宴の歌群は、それら歌人たちが勢揃いしたという意味だけで、記念碑的な作品群であるのではない。「落梅之篇」というエキゾチックな詩題を借りて、日本語の「短詠」による新しい風雅の文芸を、東海の一国に樹立しようとした、天平文人たちの志の大いなる結実であった。それはまた、圧倒的な外来文明を仰ぎ見つつ、それへの憧憬と模倣に終始することを潔しとせず、自らの国土のうえに現実の楽土の建設を夢見た、天平文化そのものを象徴するに足る記念碑でもあった。

 さて当の書持の追和の作であるが、諸家が指摘する通り、表現に稚気の感じられる強引さがあることは否めないだろう。特に二首目・三首目など、仮定・否定・反語の辞を連ね、しかも無理やり三十一字に収めたかのような省略表現があって、容易に意を辿ることを拒んでいる。しかし追和された当の歌と丁寧に読み比べてみれば、それほど晦渋な作とも思われない。ここでは一首ずつ詳しく見ることはしないが、宴の座にあった人々の心理や作歌の動機にまで想像を巡らして、自分の趣味・嗜好を対決させているといった印象を受ける。語法ばかりでなく、追和の方法としてもなかなか野心的な作と言えるだろう。
 ところでこの追和という文芸手法は、大宰府時代の旅人が好んだものであった。梅花宴の「員外思故郷歌」「後追和梅歌」は旅人作と思われるし、『遊於松浦河』の「後人追和之詩」は間違いなく旅人作である。長歌を詠まなかった旅人にとって、追和による詩的世界の展開は構成上の試行として必然的なものであったろう。書持は父の手法を承けて、梅花宴の浪漫的世界を独力で再上演してみせたのである。
 「この人、人となり花草花樹を愛でて多く寝院の庭に植う」と兄によって描かれた(巻十七)書持という人は、早くから生々しい政治の世界を厭い、もっぱら風雅の世界に遊ぶ気風を自らのうちに育てていたように想像される。それは萩や梅の花を愛し、「淡然自放、快然自足」を座右銘とした父旅人の血の一面を受け継ぐものであった。広嗣の乱に端を発した政界の激動をよそに、天皇に打ち捨てられた平城京にあった書持が、「大宰の時」の風雅を想起したとしても、何ら異とするに足るまい。長男として佐保大伴家を担い、現に政争の渦に巻き込まれつつあった当時の家持にとって、そうした境涯は望むべくもなかったのであるが。

 家持もまた後年、追和の手法を愛用するようになる。天平勝宝二年三月末には、大弐紀卿の歌に和した次のような作が見られる。初二句は、書持の「遊ぶ内の楽しき庭に」を想起させる表現である。

    追ひて筑紫の大宰の時の春苑梅歌に和へて作る一首
  春の(うち)の楽しき終へは梅の花手折り招きつつ遊ぶにあるべし
     右一首、二十七日、興に依りて作る

 越中での詠である。「しなざかる越」の地に、やがて家持はもう一つの「文学の離宮」を打ち立てることになるのだ。

 _従(けんじゅう)たちの海路の作を家持たちの「詩的体験の原型」のとするなら、梅花宴の歌群はそのであったと言うべきだろう。表現の未熟さにも拘わらず、弟の連作を六首にわたって自らの歌日記に記載したのは、これらの歌に、さまざまな意味で家持自身の強い思い入れがあったことを示している。
 

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(C)水垣 久 最終更新日:平成10-07-14