田辺史福麻呂
たなべのふひとさきまろ
- 生没年 未詳
- 系譜など 田辺史は『新撰姓氏録』に2系統見え、右京皇別に「豊城入彦命四世孫、大荒田別命の後」、右京諸蕃に「漢王の後、知惣より出ず」とある。また上毛野朝臣の条に、「文書を解するを以て田邊史と為す」とあり、上毛野氏との深いつながりが推測される。古来文筆を以て仕えた氏族で、氏名は大阪府柏原市田辺の地名に基づくという。大宝律令の撰定者として知られる首名・百枝はおそらく福麻呂の同族であろう。また『東大寺要録』には田辺史広浜が銭一千貫を寄進したと見え、経済力の一端を垣間見せる。
- 略伝 740(天平12)年の恭仁京遷都後、「寧樂故郷を悲しみ作る歌」(06/1047〜1049)、「久迩新京を讃ふる歌」(06/1050〜1058)が見える。744(天平16)年2月、恭仁京が放棄され難波に都が遷された後、「春の日に三香原の荒墟を悲傷しみ作る歌」(06/1059〜1061)、「難波宮にして作る歌」(06/1062〜1064)がある。また制作年は不明であるが、「敏馬の浦を過ぐる時に作る歌」(06/1065〜1067)、「足柄坂を過ぎて死人を見て作る歌」(09/1800)、「蘆屋處女の墓を過ぐる時に作る歌」(1801〜1803)、「弟の死去を哀しみ作る歌」(09/1804〜1806)がある(以上の作はすべて「田辺福麻呂之歌集(中)出」と左注に記されている)。
748(天平20)年3月頃、越中守として赴任していた大伴家持のもとを訪れる。同月23日、家持の館で饗宴が開かれ、この時の歌の題詞には肩書として「左大臣橘家之使者、造酒司令史」とある。橘諸兄によって派遣されたことが判るが、用向きは諸説あり、確かではない。この宴で4首の歌を残す(18/4032〜4035)。翌日24日にも引き続き宴があったらしく、「布勢水海遊覧」を期しての述懐歌(18/4036、18/4038〜4042)を詠む。25日、「水海に至りて遊覧せし時」の述懐歌(18/4046)を久米広縄・大伴家持らと詠みあう。さらに26日には久米広縄の館で饗宴があり、ほととぎすの歌を詠む(18/4052)。また(おそらく同じ日の宴で)「太上皇(元正上皇)の難波宮に御在しし時の七首」(18/4056〜4062)を伝誦する。これらは天平16年の作と思われる。
関連サイト:田辺福麻呂の歌(やまとうた)
表紙へ