略伝 初め美努王に嫁するが、694(持統8)年、美努王が大宰帥として筑紫に赴任した後、王を捨てて不比等の室となる。701(大宝1)年、安宿媛(光明子)を生む。仮に葛城王を生んだ歳を20歳とすれば、この年37歳になり、当時としては非常な高齢出産であった。708(和銅1)年11.25、元明天皇より橘宿禰の姓を賜わる。天平勝宝3年1月頃、久米広縄が伝読した「太政大臣藤原家之縣犬養命婦、天皇に奉る歌」(19/4235)はこの頃の作か。717(霊亀3)年1.7、従四位下より三階昇進して従三位。これは前年の安宿媛入内による昇叙であろう。720(養老4)年8.3、夫の不比等を失う。不比等の莫大な遺産の大半は妻三千代を経て光明子に受け継がれたものと思われる。以後も後宮に絶大な影響力を及ぼし続け、養老5年、正三位。同年5.19、元明上皇不豫の折、入道。この際、食封・資人を辞すが、優詔あって許可されず。729(天平1)年、藤原麻呂が「天王貴平知百年」の瑞字ある亀を献上するが、瑞亀が捕獲された河内国古市郡は橘三千代の本貫。同年、娘の安宿媛の立后を遂げる。733(天平5)年1.11、薨ず。続紀には「内命婦正三位」とある。葛城王の生年から、薨年は60代かと推測される。散一位に准じた葬儀を賜わる。同年12.28、舎人皇子らが派遣され従一位を追贈される。天平6年1.9、興福寺西金堂竣工。これは皇后光明子が母三千代の一周忌に合わせて建立したものという。ここには阿修羅像などの八部衆像・十大弟子像(将軍万福作)が置かれた。740(天平12)年5.1、皇后、一切経に奥書を付し、母橘三千代を「橘氏太夫人」とする。760(天平宝字4)年8.7、藤原不比等に淡海公、橘三千代に正一位大夫人を追贈する。「大夫人」の称号が正式に認められたのはこの時であろう。万葉に歌は上記1首のみ。
(注)『尊卑分脉』は不比等の女子の一人として多比能をあげ、「母は光明皇后に同じ」としている。
関連サイト:橘夫人厨子(法隆寺をたずねて)
峰寺薬師堂(鳥取県八頭郡郡家町)