最近行った映画(1999年)

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「ジャンヌ・ダルク」

観賞から時間が経っているのであまり細かいことが書けない のが残念だが、 特殊な能力を持った聖人としてではなく、 一人の苦悩する人間としてのジャンヌ・ダルクを 見事に描き切っていたと思う。 そういう意味では、前半の啓示を得るところや戦闘のシーンよりも、 後半の人間描写の方がはるかに印象に残った。 人間が自分と、特に自分の犯した罪と向き合うことがどれほど辛いことか ということを冷徹に描いているところが白眉であったと思う (その意味では、「逃げない」というキャッチコピーは この映画の本質を見事にとらえていると思う)。 それから、自然科学者のはしくれとして最も痛烈に響いたセリフは、 天からの啓示を得たという信念に対して、

「お前は真実ではなくて、自分が見たいものを見たに過ぎないのだ」

というジャンヌの内に響いた声である。

上に書いた通り、 リュック・ベッソンは確実に後生に残る名作を仕上げたと思うのだが、 私が唯一この映画に対してつくづく残念だと思うのは、 広末涼子なんぞに推薦フレーズを書かせてしまったこと である(ちなみに同じことが、 「まるで小学生の病気の作文」という言葉とともに、 今発売の「論座」2000年2月号に書かれていた)。 マジで一瞬見に行く気をなくしてしまったからなあ。 もう少しでえらい損失をするところであった。

(1999年12月30日観賞、2000年1月11日執筆)


「橋の上の娘」

非常に大雑把に要約すると、 橋の上で自殺を試みた若い女と、 彼女を助け「的にならないか」と誘ったナイフ投げの芸人との交歓を描いた おふら〜んすの映画である。

この女はゆきずりの男に非常に簡単に身を任せるのに、 ナイフ投げの男とは唇を交わすことすらないのだが、 ナイフを投げられる時の女の表情としぐさの官能的な様には 息を飲むよりなかった。 全編モノクロで貫かれた映像も、 全体に緊張感を醸し出し、 ナイフを投げるシーンがもともと持っている緊張感をさらに強める 効果を持っていたと思う。

男と女の間では、相手を無条件で信頼して身をゆだねるというのが 最高の愛情表現の一つであるのだが、 誰でも考え付く「セックス」という舞台装置を全く使うことなく、 ナイフ投げの的として身を投げ出すということを愛情表現の装置とする (改めて言うまでもないが、 相手を信頼しない限り的なんてやってられないわけである) というアイデアには脱帽ものである。 そのアイデアを具現する映像も、 上に書いた通り完璧な出来であった。

あと印象に残ったのは、(具体的には実は覚えていないのだが) 2人の間で交わされるセリフが非常に気のきいたものであるということ。 何かひたすら緊張を強いられる頭脳バトルのようですらあった。 おふら〜んすのカップルたちは、 みんなあんなおしゃれで気のきいたセリフの応酬を毎日しているのだろうか。

あえて難を挙げるとすれば、 ヒロインが主人公のナイフ投げの元を去るやり方など、 ストーリーに荒唐無稽な部分が少なからず見受けられたことである。 それでも、映像表現としての芸術性の高さという点で 間違いなく出色の出来であったと思う。

(1999年12月18日観賞、19日執筆)


「マトリックス」

改めて言うまでもないが、いま(この文章を書いている時点で) 最も話題の映画であり、 私がアメリカ映画で久しぶりに見たいと強く思った作品であった。 初日の封切り一番最初の上映に行ったのだが、 上映開始1時間前に行ったものの予想通りチケット売場には かなりの人が並んでいたし、 開始30分前にはほとんど完全に席が埋まっていた。

この映画では、 今までの常識を打ち破るような映像効果が非常に話題になっていたのだが (例えば、 登場人物が空中に浮いた状態でその周りをカメラが一周するような映像など)、 TVでやっていたCMやメーキングビデオなどで かなり予備知識があったせいか、 そのような映像に対する驚きはかなり薄いものがあった (これは正直に言って非常に痛恨であった)。 それだから言うのでないがしかし、 そのような映像効果に頼る必要のないだけの確固たる構成と、 観客の心を魅了し捕らえて放さないストーリーを誇る映画であったと 私は確信しているし、 かえってそのような映像効果が、 映画の本質から目をそらしかねないとすら思えるほどであった (言うまでもないが、 映像効果自体のレベルが低いと言っているわけでは決してない)。 もちろん、 「現実と思っていることが 外からの作用による仮想でしかないというアイデアは、 使い古されているではないか」という批判もあるのだろうし (私は残念ながら、その批判が正当かどうかを判断するほどの 映画体験も文学体験もないが)、 最後にキアヌ・リーブス演じるネオが救われるそのやり方は ある意味で安直だとも思ったのだが、 少なくとも見ている間にはそんなことは全く感じさせないほどの 吸引力を持つ映画だと私には思われた。

この映画を詳細に論じるだけの表現力も思考力もないのは 非常にもどかしいのだが (そのような力に富む人たちによる議論は、 確実にインターネットを舞台にして展開されるのであろう)、 一つ心に引っかかったセリフがある。 人間は「仮想世界」で死ぬと 「現実世界」でも死ぬのかという質問に対する答え 「心と肉体は不可分である」。 西洋世界は精神と肉体の二元論に支配されているという認識を私が持っていた から、心に引っかかったのだと思う。 カンフーをベースにしたアクション、 文字の流れるコンピュータ画面に含まれるカタカナ、 さらに別のコンピュータ画面においても一瞬現れる漢字。 そのようなものを見てこのセリフを考えると、 純粋な西洋の価値観のみに裏打ちされた映画ではないということが このようなセリフにも反映されているのかと少し考えた。

現実世界と仮想世界という全く異なる2つの舞台において展開される、 重厚で、見るものの知的好奇心を強く刺激するストーリー 黒を基調としたスタイリッシュな映像、 激しくかつ、非常に洗練されたアクションシーン、 2時間以上の時間を全く感じさせない息詰まるような緊迫した展開。 知的重厚さとエンターテインメント性という相反するような要求を 非常に高いレベルとバランスで満たした、 素晴らしい映画であると思う。 それから俳優陣も それぞれの役のキャラクターをこれ以上ない演技でもって示していたし、 特にキアヌ・リーブスのクールな格好良さには、 「俺もこれくらい格好良かったら人生変わったやろうな」 と思わずにはいられなかった。 最後に、一般の話題に上がるよりはるかに前に この映画の存在を教えてくれて、 私の関心をこの映画に向けさせてくれた後輩にこの場で感謝を表したい。

(1999年9月11日観賞、執筆)

上の文章を書いたあと、私の親友の岡崎泰裕氏から 「マトリックス」とアニメーションとの関係に関する指摘を メールでいただきました。以下にほぼそのままの形で載せます。 岡崎氏にはこの場を借りてお礼申し上げます。

−−ここから以下、岡崎氏の文章−−

マトリックス、俺も見にいったんだけど、日本の漫画・アニメの影響も言った方 がええんちゃうか?

というか、まず絵や設定については押井守監督の劇場版アニメ「攻殻機動隊」の 影響がめちゃめちゃ入ってる気がする。

数字が画面全体にあわられる描写はそのまんまのぱくりだし、首の後ろでジャッ ク差し込むのもデータを有線で送ってもらうのもそうだし、銃撃戦もほとんど一 緒(銃撃戦についてはインタビューで監督自身そう答えたらしい)。

カンフーについては「攻殻」の影響プラス「ドラゴンボール」、人は皆コンピュ ータに情報操作されてて今は既に100年先ってのは、初期OVAの傑作「メガ ゾーン23」、空をジャンプしてるシーンとかはおそらく大友克洋「AKIR A」のカット、いや、これも「ドラゴンボール」かな・・・

その他にも、「あれ? この設定どっかで・・・」というシーンが続出。監督さ んが漫画・Animeのすさまじいオタクであること、外国の映画はお金持ちな ことが身にしみた映画でした。

−−ここまで−−

(1999年9月20日加筆)


「レッド・バイオリン」

この映画は若き天才(と言っても私は知らなかったのだが) ジョシュア・ベルのバイオリンとこれまた気鋭の 若手エサ=ペッカ・サロネンが指揮するフィルハーモニア管弦楽団が 奏でる音楽に全編が貫かれている。 ジョン・コリリアーノの書き下ろしの音楽は 非常に濃密な響きに満ちたものであった。

肝心のストーリーは、 「レッド・バイオリン」という伝説のバイオリンをめぐる人間模様で、 そのバイオリンの作者の妻は出産の時に死に、 100年後にそのバイオリンを手にした修道院出身の天才少年は 心臓を病んで病死。 さらに後にそれを手にした天才奏者は恋人との恋愛のもつれの末に自殺。 さらに文化大革命では破壊される危機に直面し、 最後にオークションでも 様々な人間模様を繰り広げるきっかけを生み出すと、 そのバイオリンを取り巻く人間は、それに魅惑され、 最後には破滅するというような話。 バイオリンの作者の妻の占いが、 実はバイオリンの将来を暗示するものであるというところ、 さらにその占いが展開される部分、 実際のそのバイオリンの運命がなぞられる部分、 さらに、最後にオークションが展開する部分 (オークションは、 全く同じ場面が何度もかなり繰り返されるというところが ちょっとうっとおしかったが) が並列して展開するさまが非常によく考えられていて印象に残った。 あと印象に残ったのは、この映画ではクレモナ、ウィーン、 オックスフォード、上海、モントリオールと5つの都市が出てくるのだが、 それぞれで現地の言語で話が展開する(つまり英語、ドイツ語、イタリア語、 中国語、さらにフランス語も出てくる)ところ。 普通の洋画ではどんな展開をしようとも 英語なら英語でひたすら貫かれるわけだから、 かなり手間がかかっていると思う。

しかし、最も印象に残ったのは、 「レッド・バイオリン」がなぜ「レッド・バイオリン」 なのかが提示されたところ。 これには完全に虚をつかれた (なぜなのかはあえてここには書かない。 勘のいい人にはわかるでしょう)。

(1999年7月4日観賞、執筆)


「ロリータ」

ナボコフの原作を読んだことはなくても(かく言う私もないのだが)、 「ロリコン」という言葉を知らない人はいないだろう。 簡単に要約すると、 少年時代に恋人に病気で死なれて恋愛にトラウマを持っている 中年の大学教授が、 滞在先の家主のおばさんの娘ロリータ(これは愛称だが、 本当の名前は忘れた。確か14才)に惹かれ、 結局その娘の義父になるのだが、 彼女に散々振り回された挙げ句に去られ破滅するという話である。

この話の主眼を非常に乱暴に私なりにまとめると、

と言ったところであろうか。 前者については、 「子どもはinnocentだ」というのは 全くの幻想であるということである。 子どもは本当にinnocentだったらそれはそれで非常に残酷たりうるし (「裸の王様」の例を出すまでもないであろう)、 逆に大人の「子どもはinnocentだ」 という幻想を絶対的な免罪符として利用するだけの知恵も 子どもは持っているのである (結局大人にとって都合のいい「子どもはinnocentである」 という幻想に大人はしっぺ返しを食らっているのだ)。 映画を見ていても、 どこからロリータは主人公の恋愛感情を意識した行動を始めたのか、 それとも最初から全て見通した行動をしていたのか、 全くわからなかった。 上で述べたことは「女」に限らない話なのだが、 それでも私からすると「女」の方が恐ろしい存在だと思う。

後者については、結局主人公は「恋敵」を射殺して破滅する結末を迎えるのだが、 そのような悲劇的な結末には強い共感を覚えずにはいられなかった。 大体ハッピーエンドの映画(映画に限らんが) を見て何が楽しいというのだろう。 人間どうしようもないこともあるものである。 そういうnegativeな側面を描き切るのが 人間描写としての芸術の絶対条件であると私は信じているので、 その点で十二分に満足できるものであった。

(1999年6月13日観賞、15日執筆)


上映会「それぞれの春の祭典」
(愛知芸術文化センター・アートスペースA)

この上映会はH・アール・カオスの「春の祭典」の公演の 関連イベントとして開かれたもので (これ以外にも興味深い関連イベントがあったらしいのだが、行き損ねた。 あと本公演は多分行かないと思う)、 以下の4映像作品の上映がほぼ3時間にわたって行なわれた。

私が「春の祭典」を初めて聴いたのは、 いわゆるクラシック音楽を聴き初めてからかなり後だったのだが、 自分が聴いてきた音楽とのあまりの違いに、 脳天を打ち砕かれるような強烈な印象を受けるとともに 「自分はこんな素晴らしい音楽を知らずに音楽というものを語っていたのか」 と自分に対して非常に恥ずかしい思いすら抱いたものだ。 「春の祭典」にこれだけの強烈な印象を受けたので、 現代舞踊はこの高い山に対して どのようなアプローチをしているのかということは、 現代舞踊という芸術のジャンル自体には それほど興味を抱いてはいなかったものの、 前からずっと気になっていたのではある。

さて上映会であるが、 まず最後の「春の祭典の変遷」について。 この映像は、初演の振付のニジンスキー以降の マリー・ヴィグマン、モーリス・ベジャール、ピナ・バウシュ、 マーサ・グラハム、マッツ・エックの6人の振付家について、 本人または関係者へのインタビューや、 実際の舞踊の映像から構成されたものである。 やはり「春の祭典」は振付家にとってかなりchallengingな題材のようで、 映像を見ると様々な解釈、 アプローチがなされて来ているということがよくわかる。 私にとって一番しっくり来たのはやはり初演のニジンスキーの振付であった。 うまく表現できないが、振付も衣装も、 ほかの舞踊とは全く違う東洋的なもので、 これが自然なものに思われた。 初演は大スキャンダル、文化的事件になったことは有名な話だが、 現代のセンスから見れば穏当な表現だと思う (それでも非常に考え抜かれた、 特異な才能のなせる技であることは間違いないのだが)。 初演のスケッチは完全には残されていないらしく、 実際に復元されたのは80年代になってかららしいのだが、 その辺の事情は2本目のドキュメンタリーで、 関係者に長時間にわたるインタビューがなされていた。

一番唖然とさせられたのはマッツ・エックの振付。 誰もやっていない表現を求めてかれが頼ったのが「日本」。 しかし、黒澤にinspireされた彼の日本観は、

白塗チョンマゲのほとんどバカ殿状態の男と日本髪に着物の女

という日本人からは許容しがたい形で結実していた。 ところがこれが音楽に妙にマッチしていたのが恐ろしいところ。 しかし、彼もそれは非常に不完全なものと自分で認めていたのが せめてもの救いか。

モーリス・ベジャールは、 私が知っていた数少ない振付家だけに、 どのような表現をしてるのか非常に気になっていたのだが、 どうもピンと来ない部分が多かった。 もちろん非常に独創的な振付けではあったのだが、 春の祭典のバーバリズムを不必要に強調しているような感があったとともに、 体の動きが必ずしも洗練されていないように感じたからだ。 しかし、ドキュメントで シルヴィ・ギエムが完璧な動きで踊っていて、 それが非常に美しいのを見た時に、 ベジャールの振付はとてつもなく高いレベルを求めていて、 そのレベルに踊り手全てが到達していないから 洗練されているように見えなかっただけかとも思えた。 あと、モーリス・ベジャールは、 他の人とは全く異なる「春の祭典は陰と陽という2つの異質なものの融合の表現」 という認識を持っていたのが印象に残った。 また彼は金に困ってる時にこの仕事の依頼を受けたこと、 そのことを友人に話したら「とんでもないことを」 と言われたことなども話していた

ニジンスキー以外ではピナ・バウシュの 一瞬の無駄も弛緩もない表現が印象に残ったのだが、 ただひたすら踊り手に稽古をつけるピナ・バウシュのドキュメンタリーを 見ると、 自分が直接表現するわけではない振付家という立場とその存在価値が どういうものなのかかえってわからなくなった。

映像を見ていてつくづく思ったのは、 これだけの多様な表現の可能性を生み出すきっかけとなっている 「春の祭典」の偉大さである。 あと、誰が言ったのか忘れたのだが、春の祭典を評して 「偉大な芸術は人を驚かせて、それから納得させる」 と言っていたのも印象に残った。

(1999年5月18日鑑賞、執筆)


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