七里浜今昔

いまだに広い浜にはハマナスの花が咲き、海亀も産卵にくる七里浜の今昔 をひとくさり。

中世の古戦場、稲村ヶ崎から小動岬(こゆるぎみさき)までの間が七里浜。実際は3キロメートル。六町が一里の関東道(鎌倉志)で計っても七里はない。1801年には伊納忠敬が七里浜を計測したはずであるが、くわしい記述はない。稲村ヶ崎は新田義貞の故事で有名だが、小動岬に江戸時代末期ペリー 艦隊の来た1853年の少し前よりお台場が 置かれていたことを知る人は少ない。

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葛飾北斎の相州七里

帝国憲法が発布された1889年頃は江ノ島弁天参り後鎌倉に入る道は2通りで、一つは浜伝い、2つ目は稲村ヶ崎に近い極 楽寺川河口の船着場経由極楽寺から長谷に入る道であったとのこと。

1902年が江ノ電設立の年とされ、2002年に100周年を祝った。1907年藤沢から大町まで開通している。稲村ヶ崎に近い海の見える場所は外国人の別荘となった。その後、津田梅子、新渡戸稲造、有島生馬、大内兵衛、西田幾 太郎、野村胡堂らが移り住んだ。

1910年1月23日帝国海軍「松島」の払い下げカッター「箱根号」に乗った逗子開成中学の生徒とその弟ら12人が遭難 した。同年2月6日の法要にて鎌倉女学校の三角錫子がガーデン作曲の新教聖歌「われ等が家に帰る時」の曲に作詞した「七里ヶ浜哀歌」が有名な「真白き富士の嶺(ね)、緑の江ノ島・・・」である。

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手前から七里浜、西端の小動岬、 江ノ島に連なる砂洲、相模湾、足柄の山々、富士山

上の写真は下の地形図に示されているように、江ノ電稲村崎駅駅上空高度487mから50mmレンズで 276度方向、俯角8.8度で撮影したものである。小動岬の右手の江ノ電を見下ろす丘の上に黒沢の名画「天国と地獄」の舞台が設定された。

小動岬の手前に恵風園胃腸病院という病院がある。昔は結核療養所で恵風園サナトリウムと言った。太宰治が自殺未遂で担ぎ込まれたという話もあるところだ。 東大生太宰治に誘われた銀座のホりウッド・バー女給田辺あけみ(19)は睡眠剤で亡くなっている。2020/2/27たまたま新コロナが広まる恐れがある とき、恵風園胃腸病院は近くの新病院に引っ越し中であった。新病院は小動神社の前に完成した小さなクリニックである。

 この恵風園の一角に腰越独立教会がある。恵風園の創立者の中村春次郎氏の長女姜子(きょうこ)が若くして米国に渡り、移民 の新居三郎氏と結婚して果樹園を営んでいた。彼女は息子をなくしてから腰越に教会を作りたいと欲し、マッカーサーの60日という帰国許可期間に春次郎氏か ら土地の提供を受け、個戸川次郎氏を牧師に選らんだという逸話が残る。

宇宙からみた富士山の写真にも三浦半島と伊豆半島の間に七里浜 がみえている。白銀の富士山の向こうには南アルプスと中央アルプスが横たわっている。

神津島からのフライトは鎌倉上空を飛ぶ、そのとき由比ヶ浜と七里ヶ浜を沈み行く夕日の逆光のなかで撮影したのが下の写真 だ。

由比ヶ浜と七里ヶ浜と江ノ島 2010/4/14撮影

更に遠く宇宙船からみた七里ヶ浜と富士山が下の写真である。

宇宙から見た七里ヶ浜、富士山、中央アルプス

七里浜は丘陵地帯が海に迫っていて、水面下は岩盤である。このため波が 荒く、遊泳禁止である。サーファー の人気スポットとなっていて波が良い日はザット150名がサーフィングを楽しんでいる。

江ノ電鎌倉高校前駅から鎌倉高校に登る坂道は丘陵を掘削して造った切り通しで日坂と呼ばれている。この日坂の西側の丘陵は腰越1丁目である。東側は七里浜2丁目(俗称シーサイド七里浜住宅地)となる。腰越1丁目の海の 見える丘の上には建築家隅研吾設計の「竹の家」がある。オーナーが亡くなったのか2020/12/7に解体中である。

竹の家 (2008/12/11撮影)

七里浜の浜も昔は鳴き砂であったとのことであるが、今は鳴かない。

日曜日の江ノ電は観光客で満員。江ノ電は単線で、上りと下り電車は駅ですれ違っている。鎌倉高校前駅をおりてライオンズマンションの前を東に向かうと急坂が見えてくる。これがシーサイド七里ヶ浜への入り口だ。



シーサイド七里ヶ浜入口 2013/3/6撮影

鎌倉高校から日坂の切通しを海に向かって坂道を下ると切り通しの向こうに海が真正面に見え、江ノ電が通るのが見える。ここから鎌倉高校前駅に至る狭い道は 20年前は鈴木病院の土地であったが、いまではそこにライオンズ・マンションが建ち、道も広くなった。新田義貞の鎌倉攻めのおり、この切通しを通って進ん だ ため新田坂と名づけ、新坂、日坂と変ったものだといわれている。いまでも馬頭観音が鎌倉高校校門の近くにある。

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日坂の踏み切りを渡る江ノ電 1993年頃

2013年に入ると日坂の踏切で結構いい服を着 た若い男女のグループがポーズして写真をとっている。話している言葉は中国語だ。これがときどきある。何事かと調べるとこの踏切がスラム・ダンクという 1990-1996まで週刊少年ジャンプに連載されたマンガの舞台になっていて、これを若い頃愛読した台湾人が観光でやってくるためらしい。鎌倉高校が湘 北高校になっている。これはアニメ化され てテレビ朝日で1993年10月16日 - 1996年3月23日に放映されたという。


スラム・ダンクの一場面

2013年、鎌倉市は50cc以下のバイクのナンバープレートのデザインを公募し、香川県丸 亀市の垂木秀行氏の下記デザインが採用された。

2006年には日坂の踏み切りとロ−タリー周辺も「ブライトン」や「あすなろ」が閉店し、IT長者のS氏の別邸などが建てられ、雰囲気が変わってきた。桜のつぼみが膨らみ、春一番が吹いた2014/3/18荒井康全氏が七里ヶ浜を訪問してものしたスケッチ。 

荒井康全氏のスケッチ 2014/3/18

日坂の踏み切りとロ−タリー周辺のS氏海浜邸付近 (2007/2/12撮影)

IT長者氏はビン テージカーのコレクターで白洲次郎が若き頃乗り回したベントレーとかブガティーを所有する。

ベントレー (2010/2撮影)



ブガッティ (2012/10撮影)

江ノ電鎌倉高校前駅と七里浜駅の間 に峰ヶ原と呼ばれる少し広くなったところがある。ここには駅がないのに退避腺ですれちがっている。この場所はかっての日坂駅の跡である。この峰ヶ原は鎌倉 時代には金洗沢ともいわれ、ここに関所を設けて義経が鎌倉に入れないようにしたと「平家物語」に書いてある。龍口寺前の刑場で処刑された義経の首が晒され た場所で もあるとのこと。「吾妻鏡」には頼朝が江ノ島に出かけた帰り道、ここで牛追物(うしおうもの)を見て館に 帰ったと書かれている。頼家が1200年の雪の中、現在の藤沢の大庭野(おおばの)に狩に出かけた折にここ で宴を開いている。

旧日坂駅

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峰ヶ原 (西方を望む)

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峰ヶ原 (東方を望む)

現鈴木病院のオーナーの鈴木道夫理事長が1960年3月にセスナ機をチャーターして撮影した写真をいただいたのでおゆるしを得て掲載する。藤沢の現荏原工場の あるところに飛行場があり、ここから撮影に飛び立ったとのこと。旧茶房「あすなろ」の辺りに結核療養所の事務所があったことがわかる。病院構内の道路 をなぞるようにシーサイド七里 ヶ浜の丘の上に登るS字道路がつけられていることがわかる。鈴木氏撮影の別の写真には広町緑地も 撮影されているが禿山である。戦時中は食料増産のために林を切り開いて畑にしたり燃料用に使われていたのであろう。いまでは人の手が入らず二次林となって いる。

1960/3当時の七里ヶ浜 (鈴木道夫氏撮影)

現在の鎌倉高校のキャンパスは畑を買収して戦後に開発されたものだ。海岸2列が鈴木病院の結核療養所でその北側の丘の上 が鎌倉高校のグランドである。我が家は結核療養所用地が不要となり、住宅地に分譲したものである。その西に少し写っているのがこれをやはり結核療養場であった聖テレジア病院である。

聖テレジア病院は昭和4年 4月アルベルト・ブルトン司教により結核療養所として開設。15歳でノルマンジーの小都市リジュリーのカルメル会修道院にはいって1897年に24歳で死 んだ聖テレーズ(本名テレーズ・マルタン)は著書で人気がでてジャンヌ・ダルクに次ぐ人気がでた。それを記念するBasilique Sainte-Thérèse de Lisieuxは立派な大聖堂までに成長した。アルベルト・ブルトン司教は大戦中も逮捕されたり、釈放されたりしたが、 1954年まで聖テレジア病院を育てた。

聖テレジア病院

1946年7月、ブルトンは神奈川県鎌倉市の聖テレジア療養所の近くに本部を移し、聖母マリアが聖エリサベトを訪問したとき、モンタナ(山地)へ 行かれた(ルカ1-39)という福音に基づき、「モンタナ修道院」と命名している。日本滞在中であったパリ外国宣教会会長ルメール司教の司式で葬儀。七里 が浜修道院の聖母訪問会墓地に埋葬される。いまでも相模湾の海をながめている。



アルベルト・ブルトン司教の墓

友人が操縦するヘリで七里ヶ浜上空を飛んだとき、ほぼ同じ場所を正面から撮影した写真を下に掲載しよう。過去50年間の 変遷が分かる。鎌倉高校の東にある谷は頂上を削った土砂で埋め立てられ、S字坂がつけられた。シーサイド七里浜住宅地の裏手が鎌倉広町緑地である。

シーサイド七里浜住宅地と 鎌倉広町緑地 (2002/3グリーンウッド氏撮影)

下の写真は2017年に望遠レンズ標準装備のデジカメで、江の島の突堤から七里ヶ浜を撮影したものだ。S字坂が見え、中央奥の樹木は東隣の七里ヶ浜東の奥にある鎌倉山と、そこにあるNTTのアンテナである。


江ノ島から見たシーサイド七里浜ク ローズアップ (2017/1/9撮影)

下の写真は友人のモーターセーラーで七里ガ浜沖をセーリングしたとき撮影したもの。


海から見た七里ヶ浜2丁目  2015/9/5

この峰ヶ原から西方、太宰治が心中に失敗して担ぎ込まれた恵風園にかけての丘陵地帯も広く日坂という。新田義貞軍の古戦 場跡である。明治の末から昭和30年代にかけてこの一帯は鈴木結核療養所であった。今では結核療養所は鈴木病院となり、ストレプトマイシンのおかげで結核 療養所はシーサイド七里 ヶ浜という住宅地になった。

七里浜の空の散歩 (2010/5/28撮影)

時々浜の上をパラグライダーが飛ぶ。峰ヶ原の東、七里浜の中心を流れる行合川は古戦場だ。峰ヶ原と行合川の 間にはアンナ・パブロワが住んだ邸宅の記念碑が建っている。

行合川の東の七里浜高校の裏には10数年前までは柴崎牧場があった。牧 場もこの界隈の外国人へミルクを供給するために作られたとのこと。子供を馬にのせてもらったことがある。柴崎氏は那須高原で畜産を継続しているはずであ る。

海から見た七里ガヶ浜 (2006年8月28日撮影)

元柴崎牧場の東側の七里ヶ浜東には渡辺淳一の「失楽園」で有名になったプリンスホテルがある。この浜には県営駐車場が あり、若者のエネルギー発散の場所となっている。鈴木道夫氏によると西武が七里浜東住宅地を造成するため に丘を切り出し、その残土で現在の県営駐車場を埋め立て造成したものだという。プリンスホテルに隣接したドライビングレンジはおじ様族のたしなみの修練場 である。

七里ヶ浜東にはかって乗馬クラブもあり、浜で騎乗の人がみられたものであるが、今では廃業し、クラブハウス跡はシーカヤックの製造・展示場となっている。

七里ヶ浜西端の小動岬と東端の稲村ヶ岬の根本は砂浜が痩せている。その遠因は相模湾に流入する河川にダムや堰が設けられて砂の供給が減ったことであろう が、より直接的には港の建設で砂が港内に蓄積した分、周辺の浜が痩せるという傾向がみられる。特に西端の小動岬の腰越漁港拡張は七里ヶ浜西端浜の浸食に影 響をあたえているのは最近の10年にみられる現象だ。

東端の稲村ヶ崎の浜の浸食は今から30年以上前に生じたことで、これは県営駐車場の建設で西からの砂の供給は途絶えたからと考えられる。その証拠に県営駐車場の東側に自然の浜が残っていることからわかる。



わずかに残る自然な海岸 2015/6/27

ここは波が穏やかで砂が流れないのとヘリから撮影した下の写真でわかる通り、ここには海面下に岩礁が控えていて海砂の流損を止めているからだろう。

稲村崎 (2002年3月撮影)

七里ヶ浜の東端に稲村ヶ崎がある。この周辺は海が急に深くなるためか浸食が激しい。この東側は由 比ヶ浜である。

七里ヶ浜ギャラリー

2020/2/27

Rev December 7、2020


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