東京工業大学 世界文明センター

日本の現代建築の可能性

隅研吾(くまけんご)

December 9, 2008

 

東京工業大出身の私のかっての上司小松氏につれられて東工大の「世界文明センター」のレクチャーシリーズに参加した。建築家隅研吾のレクチャーを聴き、その才能の一端を垣間見せてもらった。大講義室に立ち見がでるほどの盛況であった。

劇作家別役実が10月15日に「笑う演劇」というレクチャーをしているのを知った。

センター長のロジャー・パルバースが隅研吾氏紹介のとき、氏が岩波新書としてこの11月に出版したばかりの「自然な建築」という新書本を絶賛する。 ここでは20世紀の世界を覆い尽くしたコンクリートは場所と素材との関係性を断ち切り、自然を画一化する建築であった。自然さとは、素材や景観だけの問題ではないと主張しているようだ。

建築家といえば丹下健三、黒川紀章、磯崎新、安藤忠雄くらいしか知らなかった。隅研吾は1979年東京大学建築家卒の建築家で今最も活躍しているらしい。

隅研吾氏はまずブルーノ・タウトから語り始める。親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたブルーノ・タウトがナチ・ドイツから逃れる ためにシベリア鉄道で日本に亡命し、京都に着いた日に桂離宮を見る。後日桂離宮について本を書いた。そのなかで西洋の建築は「形」を中心に据えているが、 日本の建築は「関係性」を重んじているという。 自然との共生とでもいえる。

ブルーノ・タウトは日本では設計の機会にめぐまれず、失意のうちに日本を去った。そしてインスタンブールで死ぬのだ。数少ない例が熱海の日向利兵衛別邸である。日向別邸はもともと渡辺仁が設計した海を望む和風住宅であったが、地下室部分のインテリアがタウトに依頼された。日向別邸は現在は熱海市に寄贈され、2005年から一般公開されている。タウトが担当した地下室が重要文化財に指定されている。

隅は負ける「建築」のテーマをたて、ブルーノ・タウト設計の熱海の家の隣のヴィラの建築で「水/ガラス 」という建築を設計した。注文主はバンダイでゲストハウスとしようというものであった。プールがつくる水の床と向こうの海が溶け合って一つになり天井のステンレスのルーバーとの二つの水平面だけで自然をフレーミングした建物を設計した。これが氏の代表作ではないか。

1997年、宮城県登米町の伝統芸能伝承館 森舞台の建築を手がける。正面奥の鏡板には日本画家千住博氏が鏡板にあふれるような老松と若竹を描いた。舞台の下に甕を置 いたのは音響効果のためではなく、どこかで間違った伝承に従っただけである。

1995年の愛媛県の今治市の亀老山展望台は 頂上を削った小山の山頂を復元してその中にコンクリートの階段を埋め込んだ劇場のような空間をデザインした。階段を登ればそこではじめて瀬戸内海を見張ら せる。デザイナーとしてはこの埋め込んだ階段の上に植林した木が大木となって覆ってほしいのだが、町の人々は枝を切ってしまう。なんとかきらないでと訴え ているのだが。

2000年の北上運河をより多くの人に紹介するための北上川運河交流館は 当初は土手の上に堂々とそびえる洋館であった。この案をみた隅研吾氏が連れ込み宿のようだと評したところ、ショックを受けた若い技官が辞を低くして指導を 仰 ぎにきた。通常役人はプライドが高く、そのまま強行するものだが、多分能力が高い人だったのだろう。そういうことで連れ込み宿を設計した設計会社と共同で 土手の中に埋めこんで外からは土手としか見えない建物にした。一般に東北の河川は歴史的に予算配分が少ないためか土手がコンクリートで固められておらず自 然の水際が残されている。この設計はそのような環境に溶け込む建物として大好評をえた。

フランク・ロイド・ライトは若いとき、広重の浮世絵を日本で買い付けていたことがある。かれは広重の絵が遠近を透明性で表現していることに気がついた。透 明なレイヤーをいくつも重ねて遠近を表現するのだ。西洋の絵画はこれに対し、パースペクティブまたは透視図という手法で遠近を表現する。すなわち遠くの物 は小さく、近くのものが大きく描くわけだ。近代建築は広重から始まったといってもいい。

私はそれを木のルーバーで表現しようとしている。 2000年の那珂川町(合併前は馬頭町)の馬頭広重美術館は庭を北側にとって発注者から不評を買ったが、裏の里山の神社を忘れてしまった町の人に思い出させるためにあえてそうしたのだ。庭を南側にとれば醜い駐車場をみる だけのことになってしまう。そして長い廊下の先に神社が見えるようにした。結果として動線は長くなるが、その間に里山の借景を楽しめるのだ。また里山を見せるために ルーバーの先の庭には木も植えてないが、町長はここに松を植えたいとごねる。それもお断りした。そしてゆったりとした平屋建てに切妻の大屋根を採用した。地元産の八溝杉による格子(ルーバー)が透明性による遠近感を出している。

ところで馬頭町になぜ安藤広重の版画が多量にあるかというとこの町出身の実業家青木藤作氏が明治期に収集したものという。神戸震災で蔵が倒壊したので町に寄付されたものだそうだ。

新潟の柏崎市高柳の萩の島という集落の 茅葺農家ばかりの集落の中に集会所を建てる注文を受けた。村人はすばらしいモダンな建物を期待したらしい。同じ茅葺を提案すると非常にがっかりされた。半 数の人は早く茅葺の家からのがれたいのだ。地元の人達に納得してもらうために大変苦労した話を聞く。最終的に納得してもらった。それではとガラス 戸も使わないことにし、和紙を使った障子で行くことにした。小林康生さんに教わった和紙をコンニャクで接着し柿渋で固める 技術を使って雨が当たってもやぶれない障子を作った。ついでに柱、床、梁をすべてこれで覆った。和紙、コンニャク糊、柿渋は風船爆弾に使われた技術だ。6万発打ち上げて600発が米国に届き、6人が死んだ。米国は必死に分析したが接着剤は解明することができなかった。なぜならコンニャクは米国で栽培されていなかったからである。

ブルーノ・タウトが竹を好きだったことにちなみ竹に挑戦してみた。夏の糖分の低い時期に切り、竹の節を抜き、280oC で乾燥して、その中に鉄筋を通してコンクリートを詰めるとすばらしい建築素材になることを鎌倉市腰越一丁目の相模湾に望む丘の上にある竹の家を作って実証 した 。二階の床も竹のスノコのため下から上の人をみることができる。 この竹の家は我が家のすぐそばにあるので散歩の傍ら目撃して実にユニークな建物だなと感心して20年にはなろうか。鉄骨、コンクリート、竹を上手く使い分 けている。2階建てだが海側から見るとコンクリート製の地階が崖の中に埋め込んであって大きな邸宅である。隣はオーナーの子供たちか、洋式の2階屋であ る。

鎌倉の竹の家

これをベースにして2002年に北京の万里の長城の下に竹の家2号を造った。Great Bamboo Wallという。竹を280oCの油で揚げた竹をつかった。2枚のガラスの間に羽毛を入れて保温壁にしたという試みもしたがこれは高くついた。 チャン・イーモウが北京オリンピックの宣伝ビデオに使った。吉永小百合を起用したシャープの液晶TVのPR映画にも使われた。吉永小百合と一緒に北京に飛ぼうと思ったがコンピュータ合成で完成すると言われてガッカリした顛末を話す。

自然素材を使うことによって、コンクリートの重くて、閉鎖的な空間を壊し、軽く、開放的な空間を未来に向けて創造することができると考えて、下関市豊浦の安養寺の平安時代の打ち捨てられた木造阿弥陀如来像を収蔵する建物を日干し煉瓦(アドビ)を積みあげていく工法でつくった。

山口県の豊浦でみた土塀が版築(はんちく)という中国殷王朝の時代の技術を取り入れ て作られていたのがヒントだった。版築とは土と石灰を混ぜたものを棒で突き固めながら土壁をつくっていく技術である。 レンガやタイルのように高温で焼成しないでただ乾燥させたもので、アメリカ・インディアンがサンタフェ周辺に沢山残したものと同じ工法だ。補強は鉄板と鉄筋コンクリートでしている。焼かないので燃料が節約になり、日干し煉瓦が湿度と温度を調節してくれるので空調も不要である。ステナブルな建築法である。

サンタフェにある米国で最も古い家

表参道のルイ・ビトンのロエベ(Loewe)・ビルは木材の縦格子でビル全面を覆う設計を採用した。発注者は喜んでくれたが法の制約で木材は外壁には使え ない。そこでドイツのリンツの町でスプリンクラーとプラスチックのコンビで使った実績を 採用たスプリンクラー と木材をコンビにすることで当局のOKをとった。あとはスプリンクラーを見えないように組み込むという工夫が必要であった。国産材は安くなっており、スプ リンクラーを含めても安くできた。木材はもっと使われて良いのではないか。ちなみに利用者はルイ・ビトンだが、土地と建物のオーナーは理想科学。

表参道のルイ・ビトンのロエベ

後刻、彼のウェブサイトを覗いて金髪の女将が采配する銀山温泉の宿、藤屋も隅研吾が手がけたと知る。木材の縦格子とその奥にあるガラスが印象的。

銀山温泉の藤屋(真新しい建物)

世界文明センター

歌舞伎座 2016/11/13撮影

December 17, 2008

Rev. November 15, 2016


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