小動岬(八王子)のお台場

七里ヶ浜の西のはずれにある小動岬(こゆるぎ)にお台場があったとは七里 ヶ浜に20年以上住んでいて知らなかった。鎌倉市は八王子台場の資料を保管管理していないが、彦根城博物館叢書1には小動岬台場の絵図が掲載されているとのこと。小動神社東側に三挺の大筒が描かれている。この場所は現在私有地となっており、地図ではニッポンレンタカー研修所となっている。現地を訪れてみると横浜の不動産会社が建物 ごとに、売りに出している。

tengoku.jpg (18088 バイト)

八王子台場跡 (2002年9月14日撮影)

八王子台場跡は上の写真の小動岬の窪地にあった。写真のピンク色の屋根のある住宅地とその向こうのベージュ色の旧ニッポンレンタカー研修所がそれである。江ノ島の上には新しい灯台が建設中である。(右側)

昭和初期に星野写真館が撮影したほぼ同じアングルの写真がある。

八王子台場跡 (1926年星野写真館撮影)

海側は下の写真のようになっている。

odaiba.jpg (19022 バイト)

小動神社側から見たお台場跡 (2002年7月19日撮影)

少し見えている建物は旧ニッポンレンタカー研修所

2002年7月1日発行の江ノ電新聞の吉田克彦氏の記事によれば八王子台場の歴史は:

1792年に根室に通商を求めてロシア使節ラクスマンがやってきた。これに驚いた幕府は江戸・相模湾の防衛の重要性に目覚める。

1808年、長崎でイギリス軍艦フェートン号の狼藉事件。

1810年、会津藩と白河藩に江戸湾と相模湾の警備をはじめる。

1825年、川越藩に相模国海岸の防衛を命じる。

1840-42年、アヘン戦争

1846年、川越藩相州四番記録には八王子遠見番所の記載がある。(江戸時代には小道岬は八王子とも呼ばれていたとのこと)

1847年、江戸湾・相模湾警備に彦根藩・会津藩を加え、四藩体制となる。

1850年、彦根藩が八王子台場の守備を担当。「ハモンドモルチール三貫目筒高島流一挺、四百目玉芝田流一挺、一貫目玉筒新稲富流一挺、外十匁筒五挺が備えられていた」とある。

1853年、ペリー艦隊、浦賀に来る。

1854年、八王子台場の警備は萩藩に引き継がれる。

1956年、安政の大地震で遠見番所の建物や火薬庫が破損。

1858年、長州藩により稲村ガ崎に台場が完成。

1859年、後に越後長岡藩の家老となる若き日の河井継之助が「海岸高所に台場あり。不要の見ある故か、勝手に登ることでき、好風景なり・・・」と記している。この時点で八王子台場は歴史的使命を終わっているようだ。

縄文海進

6,000年前には地球軌道要素の変化による日射量の増大で気温は現代より1-2oC高く、海面が4m上昇した。これは縄文海進とよばれ、現在のJR大船駅周辺は大船入江となっていた。七里 ヶ浜の西端にある小動岬は島となり、神戸川の流域は津入江が深く切り込み、行合川は田辺入江、極楽寺川は極楽寺入江、鎌倉の八幡宮は大イチョウの下が渚となっていたようだ。

July 5 2002

Rev February 19, 2008


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