小田原城跡

後北条氏の本城

小田原城は戦国大名後北条氏(ごほうじょうし)の本城だ。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時をその祖とする。代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるものの直接の後裔ではない。

早雲の代に上杉配下の幕僚だった太田道灌の発案という足軽の軍制を採用し、各城下に侍の屯所である根小屋と技術者保護のための職人町を築いて兵農分離をい ちはやく志向した。冑類の生産は全国有数の規模で、鉄砲の導入にも積極的だった。小田原城を中心とした本城支城体制を確立した。

支城は玉縄城津久井城小机城滝山城江戸城川越城、岩槻城(岩附城)、武蔵松山城、杉山城、鉢形城忍城や関宿城である。佐倉城は後北条と争った千葉親胤のものだし、富津市竹岡の百首城(造海城)は後北条と争った里見氏の対北条氏最前線として重要な役割を果たした城である。

各城には位が付けられ、城主には勲功によって昇格や降格、配置換えを行うという近代的な制度だった。最盛期の後北条氏には、10万の軍勢の動員をも可能と した戦力があった。この軍事上の優越とともに、東北の伊達政宗、東海の徳川家康、中部の織田信雄、四国の長宗我部元親などとの外交上の連携をもって、後北 条氏は関東自立を目指していた。

電撃的に西日本を統一した豊臣氏に対して、北条家も他の大大名と同様に大名家の家格を維持する事、領民に手を出さない事を条件に恭順の意思を示す。しか し、1589年に上野国名胡桃において、兼ねてより真田家との間にあった領土争いが暴発、北条家家臣の猪俣邦憲が独断で真田家の名胡桃城を攻撃して、これ を占領してしまった。この事件は大名家に対して私戦を禁止した惣無事令に背いたとして、1590年に豊臣秀吉の小田原征伐を招いてしまう。これによって戦 国大名家としての後北条氏は滅亡する。

現在の本丸

2008年12月19日、wakwakグループの芦ノ湖散策の翌日、時間があったのでクリさんと小田原城址を訪問した。かなり前に天守閣を訪問したことは あったが、広大な城址は未訪であった。

地元のマーさんによれば、城址を復元整備するために小田原市は城跡内にあった市役所や学校を外に出し、櫓や門を少しずつ復元しているという。

諸白小路でバスを降り、木立に向かって歩く。近くのビル工事現場では義務つけられている発掘調査をしていた。女性職員になにの遺跡か聞くと、分からない、 少なくとも武家屋敷ではない。多分寺院の跡だろうという。

木立は小田原城内高校で入れない。少し東進して角をまがると報徳二宮神社にでた。外堀にそって東進すると城内から移転した三の丸小学校がお城のような姿で 建っている。堀の角を回りめがね橋を過ぎればやがて再建された二の丸隅櫓と赤い学橋がすっきりとして見える。

二の丸隅櫓(再建)

学橋を渡って城内にはいり、坂を登って再建された常磐木門をくぐれば本丸跡である。


常磐木門(再建)

復興された天守閣は無論のこと猿と象がまだ長命を保っていた。象は高齢のためか目を閉じて日向ぼっこをしている。

復興天守


田中光顕伯爵の別荘


城の南には田中光顕伯爵の別荘の建物と庭園が小田原文学館と白秋童謡館」になって維持されている。田中光顕は1843年、土佐藩に産まれ、土佐勤王党参加するが、弾圧が始まると土佐藩を脱藩。維新後は陸軍中将、宮内大臣などを勤めた。


旧松本剛吉別邸

小田原文学館の向かいにある。もとは明治の元勲 山縣有朋の側近であった松本剛吉の所有であった。約2,500平方メートルほどの庭園のなかに主屋と別棟の茶室「雨香亭(うこうてい)」 があり、庭園を見下ろす小高い丘には待合が配置されている。公開している茶室は、六畳の広間と五畳の小間からなり、間に設けられた玄関を中心に左右に角度 をつけた特徴的な意匠をもっている。広大な庭園内には池や水路が備えられており、山縣有朋ゆかりの古稀庵に通じる特徴があるとされている。


小田原漁港

早川を渡って小田原漁港にあるポルト・イルキャンティで昼食。0465-23-6220


総構と小田原用水

現代では天守閣の後ろにはJRが走っている。しかし中世の本丸(灰色の部分)は現在小田原高校のある八幡山とその周辺の住宅地にあった。現在の本丸付近(ピンク)には当時は 居館が構えられてい たという。

最高点が「御鐘ノ台」でここから3本の尾根が指のように分岐している。真ん中の指が八幡山で北側の指は「御鐘ノ台(おかねのだい)」から井細田口に至る谷津尾根。南 西側の尾根は御鐘ノ台から板橋見附に至る尾根である。あとは平地に空堀や水堀を掘って小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだ「惣 構(そ うがまえ)or 総構」を 持っていた。これは当時日本一の城であった。秀吉は小田原城をまねて大坂城の惣構をつくったとされるが、こちらのほうがコピーより巨大。自然地形を利用したので巨大すぎるという感はあるが。下図の青色は水をたたえた堀、褐色は山地に作った空堀である。

総構 http://www.scn-net.ne.jp/~yanya/daigaikaku.htmにリンク


2016/1/14 NHKの「ブラたもり」で「小田原用水(上水)」と「総構」の紹介があった。いずれも秀吉の小田原攻めに参加した家康が、ここで学んで江戸城築城の参考にして江戸 城外堀を構想したと推察される。「小田原用水」は「神田上水」の手本にしたというわけ。「小田原上水」は城下町で井戸を掘っても塩水がでるため、早川の真 水を引いたのだろうといわれる。貴重な真水のためお濠には使われていなかったが近年、お濠の水の劣化防止のため上水の水が導入されたという。

小田原上水の取水は早川で今も遺構が残っている。NHKは小田原上水の取水堰のある上板橋から城の南側の平地に掘 られた上水に沿って江戸口見附まで歩いた。江戸口見附は今は埋め立てられた総構の役目をしていた渋取川にあった。いまも残る蓮上院の東南の地点である。蓮 上院脇には土塁がのこっている」。太平洋戦争時B29がこの土塁に余った爆弾を投下したという。いまでもその痕跡が残っている。小田原上水は江戸見附で渋 取川に放流されていた。しかし、水路はいまではほとんど暗渠となってみることはできない。

小田原用水の絵図によると板橋村の上板橋で取水され、小田原城がある西南の山裾の等高線に沿って流れ、板橋見附で尾根の先端を回って城の南東側の城下町を通過し、江戸見附まで流れていたわけである。

神田上水は神田川の氾濫防止のため関口大洗堰は撤去されたが、小田原上水の取水堰は何度も改修されていまでも現役である。無論上水の役目は終わったが、下水として活躍している。



江戸時代の板橋村と小田原用水の絵図 香林寺前の案内板

総構と小田原用水を歩く

2016/1/25の史上一番の冷え込みながら日本晴れの日、小田原上水の取水堰のある上板橋から板橋見附まで歩き、あとは尾根を登り、城の北側の空堀を視察しよう とでかけた。

小田原駅で箱根登山鉄道に乗り換え、10:00箱根板橋で下車すると案内板にかっての板橋村には明治の有力者が大勢別荘 をもっていたとある。大物は山形有朋で椿山荘は東京の邸宅だったが、70才を過ぎて奥さんのために寒い東京を捨て、ここに「古希庵」を築いたという。明治 の元勲ではないが、戦後電力王国の礎石を作った松永久左衛門の3,000坪の邸宅が小田原市に寄贈されてい記念館になってるという。折角だからとついでに立 ち寄ることにした。

上板橋まで東海道を歩いた。上図は歩いたコースで全コース6kmに3.5時間かかった。箱根登山鉄道が東海道を跨ぐあたりが上板橋である。現在は早 川に堰があるが北条時代は堰は無かっただろう。遠くに無線中継所のアンテナが林立している上二子山が見える。左手に一夜城が築かれた尾根が見える。秀吉の一夜城は海抜200mに建てたが、小田原城は最高地点の御鐘ノ台でも100mちょっとだ。



早川の取水堰


水路にそって、板橋村に入る。小田原城の最高地点である「御鐘ノ台」から出る三つの指の他にもう一つの指があり、先端には「ふじやま砦」があったところ だ。板橋村はこの指に囲まれた窪地である。まず左手に板橋地蔵尊があった。香林寺に向かって歩くとやがて左手に松永記念館がある。


松永記念館

松永記念館は小田原市が つくったもので価値はない。どこでも小役人は箱モノが好きと見える。折角の庭園と数寄屋作りの「老欅莊(ろうきょそう)」は分断されて無価値の建物の裏に打ち捨てられている。茶室「葉雨庵(よううあん)」 の前には石をくりぬいたバスタブ様の物が置いてあり、看板に天平時代の南部東大寺の石造蓮池というものがある。天平の文字に度肝を抜かれたがパンフレット では平安時代の東大寺の石造蓮池となっている。それにしてもなんでこんなものがここにあるのかいぶかる。久左衛門が石集めに凝っていたのだろうか?



天平時代の南部東大寺の石造蓮池

このほかにも、播磨国分寺塔心礎(奈良時代)、不退寺礎石(奈良時代)、長岳寺五重石塔(平安時代)、長岳寺石橋(平安時代)など奈良、平安時代の石造物が多い。


古希庵

竹林を抜けて「古希庵」に向かう。総面積約11,630平方メートルの中に、和風木造平 屋建の本館、伊東忠太設計の木造二階建の洋館、ジョサイア・コンドル設計のレンガ造平屋建の洋館等の建物と面積約4,600平方 メートルの庭園により構成されていたとされる。しかし今は山縣有朋自筆の「古稀庵」の額が掲げられている古稀庵の門と高低差14.9mの間に上段の庭、中 段の庭、下段の庭等といった形で構成された庭園以外残っていない。高低差を巧みに利用した流水や、洗頭瀑、聴潭泉といった滝を配したことが特徴という。い まは千代 田生命(あいおいニッセイ同和損害保険)の研修施設に建て替えられている。庭は日曜日以外には一般に公開されていない。

江戸時代に足柄上郡川村(現:神奈川県足柄上郡山北町)の百姓・川口広蔵がリーダーとなり小 田原城総構の北側の荻窪地区の灌漑用水にしようと箱根湯本で取水した水を海抜100mに沿ってつけられたトンネルで風祭経由、御鐘ノ台の北側鞍部を経由し て荻窪地区に送った荻窪用水がある。山形は自分の別荘の庭園に用いる水源として、この荻窪用水の風祭から取水して古稀庵へと送水する「山縣水道」と呼ばれ る私設水道を造った。水はいったん国道1号まで鋳鉄管で下り、サイホンの原理で古希庵に送水している。いまでも風祭にその貯水池がある。ちなみに荻窪用水は灌漑用水につかった余水は暗渠となった渋取川に放流されている。



古稀庵の門


山月


古希庵より一段高いところに荒れ果てた「山月」の門があった。山月は、明治、大正期の実業家(男爵)大倉喜八郎が、大正9年(1920)に建築した「共寿 亭(きょうじゅてい)」という別荘だ。その割烹料亭「山月」となった。時は巡り、現在は閉鎖され公開されていない。庭は一般開放されている。その上には「皆春荘」がある。有朋の側近清浦奎吾 の別邸だが、後に古稀庵の別庵として取り込まれた。下って小田原上水の水路に沿って板橋見附まで歩く。途中、宗久寺と本応寺の間の道を上ると三井物産の創始者益田孝の別邸掃雲台(そううんだい)があったところだという。面積は2万数千坪といわれたが、いまでは分譲されてしまって住宅しかない。


小田原用水

下の写真の水路の上を横断しているのは新幹線である。左手 は小田原城の総構がある尾根の末端。新幹線はこの尾根に穿かれたトンネルから飛び出してくるのだ。



小田原上水の水路


総構

新幹線の下をくぐり、板橋見附の交差点まで行き、Uターン。新幹線脇の急階段を上り、城の南 西側の尾根の上に出る。ここでかっての総構とみられる空堀の痕跡をみる。今は埋め立てられて寺の墓地になっている。新幹線は向こうの林の下をトンネルで横 断している。この空堀の右手下はかっての



墓地に転用された空堀の痕跡

「十字」という細長い地名が空堀のあったところらしい。今は住宅地になっている。坂を上って ゆくと左の掃雲台分譲地から登ってくる道との三叉路に「てっぽうやば」と彫った石柱が立って居る。更に登ってゆくと左手に城山サニーハイツという細長い3階建てのマン ションが地形にそってくの字に折れ曲がって立っている。これもかっての空堀をうめたてて建てた模様。城山サニーハイツの直下に「古希庵」がある見当だ。相 模湾の向こうに大島が見える。



城山サニーハイツ

八幡山から登ってくる道との交差点で蓮船寺から下ってくる大勢のウォーカー達とすれちがう。そのまままっすぐ登ってゆくと手前右手に巨大な空堀 が南北方向に掘られているのが見える。これは小峯御鐘ノ台大堀切の東堀のようだ。これは総構以前に構築された中世城郭三ノ丸外殻に相当し、本丸へと続く八 幡山丘陵の尾根を分断している。

更にこれに並行して西側に中掘が南北に走る。蓮船寺はこの中堀の西側にある。中掘には「横矢折れ」というクランクがつけられている。



小峯御鐘ノ台大堀切中堀

中堀の西側に西堀という3本目の堀切がある。この堀切の底を北に向かう。なぜか大きな石が並んでいる。



小峯御鐘ノ台大堀切西堀


そのまままっすぐ北に向かうと道は次第に東の曲がり、開けたみかん畑にでる。やがて正面に雪を頂いた丹沢の山並みが見え始める。左手に塔ノ岳、右に表尾根の三ノ塔、そして少し離れて右端に大山が見える。


稲荷森に向かう

谷津丘陵の上の道をそのまま道なりに歩いてゆくと突然、総構稲荷森(いなにもり)は左に50mという標識があった。藪の中の小道をたどると突然断崖の上にでる。それは谷津丘陵の地形に沿って蛇行する空堀である。下は荻窪だろう。空堀に沿ったみちは藪で歩きにくいため、もと来た道に引き返す。



稲荷森

さらに東進すると総構山ノ神堀切がある。谷津丘陵を切ってある。掘切りの向こうに見える斜面は箱根山の外輪山明神ヶ岳の斜面である。



総構山ノ神堀切

更に谷津の嶺峰を東進すると北側に荻窪口があって関東学園に下る道が段々畑状に掘った空堀を斜めに下っている。遠くに箱根山の外輪山の明神ヶ岳が見える。煙の出ているのは関東学園。江戸時代に百姓・川口広蔵が作った荻窪用水の水はこの窪地の水田の灌漑表水に使われたのだ。


荻窪口

更に谷津の峰を歩いてゆくと右手の視野が開け、現在の小田原城の天守閣が見えた。目下メンテナンス中である。天守閣の右にある尾根は中世に本丸があった八幡山である。


谷津から八幡山の向こうにある天守閣を望む

谷津丘陵の北面にでるとここにも空堀の跡が2段の畑に残っている。その向こうにNTTのアンテナと国府津方面が見える。「城下張り出し」は住宅地になっているためパス。まっすぐ丹羽病院に下る。


谷津北面の堀切 

小田原山北線を横断し、丹羽病院南側の小道にくだり、突き当たりを右折して谷津御鐘ノ台に向かって総構の急坂をジグザグに上る。


谷津御鐘ノ台に向かう総構の急坂

NTT小田原社宅裏は総構えの崖だが下る道はない。やむを得ず。大稲荷神社に下る。高長寺の前から小田急の踏切を渡って少年院の東にでれば井細田口でそこから水をたたえた堀となっていたところだが、堀は埋め立てられている。そこで本日はここまでとした。

December 21, 2008

Rev. March 6, 2017


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