国立歴史民族博物館

2005年5月8日佐倉にある国立民族博物館(Museum Serial No.212)にでかけた。ここで働いている友人から「東アジア中世海道」の企画展示の招待券を送ってくれたから、ちょうど良い機会と出かけたのである。

この友人は企業で化学分析を担ってきた科学者だ。定年後、趣味の考古学を勉強して学位をとり、ボランティアとして出土品の分析の手伝いをしている。彼が関 係しているのは国立民族博物館がリードしている水田稲作の始まりの年代の特定である。西日本の考古学者達は伝統的な土器で縄文と弥生の時代区分に固執して いるが、東を代表するこの国立民族博物館は出土品を最新の科学分析で時代を特定している。そうすると稲作の開始は土器の時代区分で縄文とされる時代にすで に始まっていることを明らかにしつつあるのだ。

エントランス

鎌倉駅から総武線は1本である。佐倉は佐倉惣五郎で有名だが、ベッドタウン化している。JRには物井(ものい)とか酒々井(しすい)など珍しい地名を発見した。

JR佐倉駅で下車してタクシーで向かう。なかなか立派な施設だ。独立法人化したと思うのだが、案内人や守衛が潤沢に配置されている。

入口に龍谷(りゅうこく)大学図書館蔵の「混一彊理(こんいちきょうり)歴代国都之図」(龍谷図)のコピーが展示してある。グリーンウッド氏が、龍谷図を指し示しながら夫人に日本が縦に描かれているよというと、そばにいた紳士が「それが彼らの世界の見方だ」と履き捨てるようにいう。 マーこれが一般人の感情かもしれない。だがギャビン・メンジーズに よれば当時のモンゴル支配下の中国は当時の西欧より全世界の地図をしっかり把握していたのだ。ベネチア人で、鄭和の船団に乗船したニコロ・コンティによっ てこの全世界図がポルトガルの皇太子ドン・ペドロとエンリケ航海王子に伝えられ、彼らはこれを手がかりに世界制覇に乗り出したのだ。永楽帝の息子以後の中 国は海禁などつまらぬことをしたものだ。

くだんの紳士は 龍谷図が、日本列島を南に転倒して描いているのは、1402年に、李氏朝鮮の廷臣である権近が、西を上方にして描かれた日本の「行基図」を、不用意に挿入 してしまったためであることが明らかになっているのを知らないらしい。同じ元資料から作られたと思われる島原市本光寺蔵の「混一彊理歴代国都地図」(本光 寺図)では、日本は正しく東西に画かれているとのことなので、展示していないか探したがなぜかなかった。

新しい歴史を作る会」などの動きは困ったものだ。相手に塩を送っているようなものではないか。お互い自国中心史観にたって、相手を非難しても問題が解決するとは思えない。

展示は丁寧な模型を伴ったもので、よくできている。

ところでこの組織は東大の歴史学教授だった井上光貞 氏が構想したものだったそうである。

さて後で気が付いたのだが、この博物館は佐倉城址の中に作られている。佐倉城は 戦国時代、後北条氏と争った佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したもの。

May 10, 2005

Rev. February 1, 2016


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