皇居東御苑

現在の皇居は江戸城だったところである。江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。1524年、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入り、小田原城の支城となる。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州は徳川家康に与えられた。1590年8月30日江戸に入った徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。

2004年2月12日、自己増殖型太陽電池の集まりに学士会館にでかけたおり、時間が余ったので皇居東御苑を散策した。大手門から入り、同心番所、百人番所、大番所、二の丸雑木林、汐見坂、天主台、北桔橋門、平川濠、平川橋とルートをとった。

城郭の構造は洋の東西を問わず同じになるものだと思う。城門を前後二重に設け、その間の四角な平地の周囲に石垣を造り、出陣のとき軍勢が集まり、また、ここで表門から侵入した敵を攻撃するための構築物を升形というが、これが幾重にも本丸を中心にして構築されている。

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大手門

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大手門升形内部

大手門をくぐると切符をわたされる。無料なのにどうしてこんな面倒なことをするのだろう。役人の失業対策か?広場をゆく と同心番所がある。ここも枡形構造になっている。枡形の内部に同心の番所が残っている。上部構造は当初からなかったのかどうか。同心とは一番地位の低い警 備員とのこと。これを通過すると中之門前の広場にでる。この広場には百人番所がある。英国のバラックだ。

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同心番所

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百人番所

中之門の木造上部構造部分は全て失われているが、その基礎部分の石組はそっくり残っていてなかなかの威容である。奥に大 番所が見える。与力・同心が警備したという。この奥の坂を登ると中雀門(ちゅうじゃくもん)があったという。その奥が本丸である。本丸跡はただ広いだけだ から敬遠して二の丸、汐見坂から天主台に直行することにする。二の丸跡は昭和天皇の発案で武蔵野の雑木林が再現されていた。まだ樹齢40才位とお見受けし た。択伐して武蔵野の雑木林を維持するのか、放置して巨木にするのか方針はうかがえなかったが、都市林は巨木にしてほしい気がする。

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中之門跡 奥に大番所がある

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明治初頭の中之門

汐見坂は本丸と二の丸をつなぐ坂道だ。その昔、新橋から皇居前広場まで日比谷入江が入り込みここから見えたのでこういう 名がついたという。この上には汐見門があったという。明治初頭には門の上部構造は失われていたようだ。いまではこの石垣の上に樹木が鬱蒼と茂っているが、 明治初頭には木1本もない荒涼とした風景である。本丸は東京湾に臨む武蔵野台地の上にあるが、二の丸は海面に近い平地に建設されたのだ。本丸は徳川幕府の 政治の中心で松の廊下もここにあった。

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明治初頭の汐見坂

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天主台から見た本丸跡

坂をのぼると天主台が本丸跡広場の北隅にピラミッドのような姿である。最初の天守閣は1607年、二代将軍秀忠の代に完成。1638年の家光の代に 改築され地上からの高さ59メートルの国内最大の天守閣となった。しかし19年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で焼失、以後再建はされなかった という。天主台のすぐ北側は平川濠がある。姫路城もそうだが、天守閣は城の中央に配置せず北に偏って配置されている。どういう考えによるのか知りたいとこ ろだ。

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天主台

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平川濠

今、小泉内閣は石原大臣を海外からの観光客誘致の担当としているが思うようにはいっていない。ここで中之門、中雀門、汐見門、天守閣の再建を提案する。無論木材を使った完全復元である。廃墟にしておくのはおしい。石原親子で推進したらどうだろうか。

2020年の東京オリンピックまでにオリジナルの図面にしたがい、木造の天守閣を再建する計画がある。予算は350億円。

February 14, 2003

Rev. January 30, 2016


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