吉野山から山上ヶ岳*までの大峰奥駈道

ついでに高野山

2009年5月、吉野山、大峰奥駈道、高野山に遊んだ。

日本古来の山岳信仰に6世紀渡来の仏教(密教)や中国伝来の道教の神仙思想を取り入れた修験道という独特の信仰形態が生まれ、紀伊半島の大峯山系の山岳地 帯が修行の場の中心となった。

吉野山から山上ヶ岳*(大峯山1,915m)にいたる全体を金峯山というが、この金峯山は修験道の開祖・役行者(えんの ぎょうじゃ)が7世紀末に修行したところで蔵王権現を桜の木で刻み、蔵王堂を建てた。桜の木を蔵王権現の像としたことから桜の保護と献木が されて吉野山は桜の名所となった。

天武・持統朝は青根ヶ峰から奥の金峯山を高天原とみなし、古 事記を編纂し、青根ヶ峰を望む吉野川岸に吉野宮を造営し、高天原を祭祀の対称とした。

西国巡礼の 創始者である花山(かざん)天皇の次ぎは一条天皇である。この后、彰子の父は道長である。道長は娘が身ごも るようにと1007年、御嶽詣(吉野の金峯山登山)をしている。紫式部は彰子の女房だった。

西行も高野山の生活の延長として大峰修行をしたという。「山家集」下巻雑に載せる大峰奥駈道での16首の連作は間違いなく西行が大峰奥駈道を往来したこと を証明するものだという。西行の大峰奥駈道での連作はその順序が混乱している。大峰第38靡の深仙宿を3首も最初に詠んでいることなどを考慮すれば、深仙 は本山派修験の根本道場であるから、西行は吉野から熊野に向かったものと思われるという。

10-12世紀に「末法思想」が流行すると吉野・大峯は弥勒菩薩の兜率(とそつ)浄土としての減罪と極楽浄 土を願う「御嶽詣」の霊場となった。ここで兜率とはサンスクリットのトゥシタの音写。将来,仏となるべき菩薩の住む所とされる。上足・妙足と訳す。都率な どともいう。

大峰奥駈道は「修験」と「御嶽詣」の霊場であるとともに、浄土往生信仰の対象としての「熊野三山」への参詣道ともなった。現代では140kmの大峯道を全 て歩くことはなく、吉野山から山上ヶ岳(大峯山)、大普賢岳、弥山(みせん)、八経ヶ岳(百名山)、釈迦ヶ 岳と縦走し、前鬼(ぜんき)に下りるのが一般的である。しかしこれも5泊6日かかる。 吉野から歩き初めて山上ヶ岳まで登るのは70才にとっては過酷である。コースタイムは9時間であるから1.5倍すれば13時間かかる。

この企画はそもそも和田君が一緒に熊野古道を歩かないかと声をかけてきたのがはじまりである。小山靖憲の「熊野古道」を読み、地図 とにらめっこで作成した幾つかの案が熊野古道である。この中から西行も 歩いたであろう大 峰奥駈道を選んだ。

吉野から歩くとして 百丁茶屋跡(二蔵宿)は食事も寝具もない単なる避難小屋である。そこで@案タクシー(3,000円)で二蔵宿まで、またはAタクシー(6,000円)で五 番関まで林道を移動して山上ヶ岳に登ることを企画し、2009年5月、和田君と二人出かけた。

山上ヶ岳参拝の後、小辺路の可能性を探るため高野山に立ち寄ることにした。宿坊の予約は全て和田君にしてもらった。 和田君は各種勉強会に出席して民族学者五来重(ごらいしげる)の「高野聖」(角川新書)にたどりついた。五 来の「高野聖」を読むと空海は816年、嵯峨天皇より吉野の南西の地を賜ったとか、西行法師が高野聖であったとか、徳川の先祖は時宗聖であったとある。融 通念仏の勧進形態を高野山の蓮花谷聖や萱堂聖が採用し、室町時代には高野聖はすべて時宗聖となっていたという。

遊行上人十二代尊観と回国していた時宗聖の独阿弥親氏が、三河国大浜称名寺の連歌の席で三河豪族松平氏に認められ養子になり、その5代目に家康の祖父清康 が出たとされている。家康は高野山に登り、大徳院の院号と朱印二百石を与えた。

泉鏡花の「高野聖」 はこのような歴史は語らない。

霊場所在地

第一日(5月21日木曜)

小田原10:09発の新幹線ひかり507号に乗るはずであったが、小田原駅の待合室で浜松で開催される科学技術振興機構の創造科学技術推進事業 (ERATO)の会議に出席するという林氏に会ってしまったのが歯車の狂い始めである。ホームでは鎌倉プロバスクラブメンバーで元ガンバ大阪社長の八木氏 に会ったところで完全に狂って3人一緒にひかり507号よ り5分前に発車する「こだま」に乗ってしまった。三島で追い越され、京都には40分遅れで到着。和田君にはホームで待ってもらった。

近鉄は橿原(かしはら)神宮で乗り換える。近鉄は中央構造線上を流れる吉野川(下流は紀ノ川)を渡る。

近鉄吉野駅ではロープウェイには乗らず太鼓判本館の管理人の東さんに電話して迎えに来てもらう。車道で大回りして宿に向かう途中、蔵王堂が見える。宿に荷 物を置き、宿の車で蔵王堂に送ってもらう。 これは金峯山寺(きんぷせんじ)の本堂で安土桃山時代建立の大伽藍(国宝)である。 中に入ってもっとも驚いたのは柱は製材してなく、原木のまま使われていることである。下が太く上に行くにしたがって細くなるため遠近法の効果か天井が高く 見える。そして中間部分が少し膨らんでいるため、ギリシアのエンタシスの石柱とも見まごう。欠点は太い柱で利用できる空間が狭くなることであろうが、これ なら長持ちしそうである。

蔵王堂の隣には後醍醐天皇の吉野朝廷の跡に建てた南朝妙法殿という三重の塔がある。蔵王堂を一周し、仁王門から徒歩で宿に向かう。途中吉水神社に立ち寄 る。桜の季節には全山桜でさぞ見事だろうと思いをめぐらす。急坂を上り、旧国民宿舎吉野山荘の跡、櫻本坊と竹林院にある大和三庭園の一つといわれる群芳園 を覗く。

東京9:33発→(新幹線ひかり507号)→小田原10:08着10:09発→(新幹線ひかり507号)→名古屋11: 21着11:25発→(新幹線のぞみ219号)→京都駅12:01着12:20発→(近鉄)→吉野駅13:56着⇒吉野千本口→(ロープウェイ)→吉野山 駅⇒太鼓判 本館泊16:00着(Hotel Serial No.455)


第二日(5月22日金曜)

本日のルートは吉野から山上ヶ岳である。総距離12.36km、累積登り1,437m、累積下り573m。

6:00の朝食前に宿に南側にある小高い丘に登り、蔵王堂方向を望む。

太鼓判本館前の丘から吉野の蔵王堂を望む

タクシーは7:00前は無理だというので、東さんに送ってもらうことにする。タクシーの場合、雨なら五番関まで、晴れなら二蔵宿まで、と考えていたが、東 さんはその手前の 「試み茶屋跡」付近までつれていってくれる。途中、金峯神社の前を通る。1970年代まではこの金峯神社近くの愛染の宿跡が女人結界であったという。青 根ヶ峰を過ぎて狭い助四郎尾に沿った林道を進んだ。30分かけて2時間分を稼いだという。蔵王堂から山上ヶ岳まで9時間だから、あとは7時間であるとい う。

試み茶屋跡付近から青根ヶ峰を振り返る

四寸岩山から大天井岳を望む

山上ヶ岳まですこし遠いと思ったがままよと7:00歩きはじめた。五十丁茶屋跡、守屋茶屋跡を過ぎたところで白装束に黄色の羽織をまとった若い行者にあ う。五十日行をしていると後で聞いたが、会って挨拶しても無言の行とか、手を合わせるだけである。

東さんは五十日行は山頂一泊翌日下山、百日行は吉野と山上ヶ岳を1日で往復する百日回峰(かいほう)にグ レードアップするのだという。千日回峰はこれを1,000回繰り返すのだが、夏しか行われないので満行に7年かかるという。それも病気や親の死があれば、 初めからやり直しとなるのでやり遂げることはほとんど不可能だという。

四寸岩山(しすんいわやま)から遠く大天井ヶ岳(おおてんじょうがたけ)を 望む。山上ヶ岳は雲の中だ。その距離にうんざりする。

10年間山に入ってきたが、荒廃している森は戦後の拡大造林の結果生じた関東・東北の急造杉林であって、林業で食えなくなった人々は故郷をはなれ、森を守 る後継者はおらず、林業も疲弊して放置されている。しかし父祖の時代から脈々と受け継がれた紀伊半島の吉野山の杉林は手入れもよく、見事なものだ。ここで は林業は生きている。吉野の杉の植林地は深く、関東の山で使えたGPSは役に立たない。

(あざみ)岳、足摺茶屋跡を過ぎて、ようやく10:00百丁茶屋跡に到達する。標準時間が2時間なのに3 時間かかったので標準の1.5倍だ。ここに無人の避難小屋二蔵宿小屋がある。 毛布なども置いてあって避難小屋としては問題ない。主として道の整備のボランティアの宿泊設備として使うのだという。

二蔵宿小屋 和田撮影

大天井ヶ岳は避けてこれを巻く在来道をゆく。ここをつかう人が少ないので、道はところどころ崩れて、緊張の連続である。和田君が土砂崩れのザレ道で転倒し てヒヤッとする。12:30五番関着。標準時間は2時間だから30分余計にかかったので標準の1.25倍。ここからは女人結界と書いてある。 高野山もとっくの昔に女人禁制を解いたというのにここだけはまだ頑張っている。

小天井ヶ岳も巻き道を通る。あまり歩かれていない道だ。鍋カツギ行者を過ぎ、今宿跡で携帯で桜本坊に到着の遅れを連絡。

15:15洞辻茶屋着。標準時より1時間余計かかったので標準の1.5倍。洞辻茶屋まで会った登山者はゼロ、行者1名であったが、ここからは登山者が増え る。洞辻茶屋では山上櫻本坊の管理人の佐藤さんに偶然会う。今日休暇を終えて登ってきたのだという。飲料水が切れていたためありがたくお茶をいただく。

洞辻茶屋 和田撮影

洞辻茶屋からの登山道は見違えるように完備されていて上りやすい。ただ木道を歩けば自然に山頂に至る感じである。途中お亀石というものがあった。洞辻茶屋 からみる山上ヶ岳の姿は巨大なテーブルマウンテンのように山頂が平らに見えたが実際に登ってみ るとそれは一枚の巨大な岩板が縦に突き立っているだけで平らとみえたところはナイフエッジのような狭い岩場であった。 等覚門は坂を上り詰めて平らになるエッジのところに建っている。

山上ヶ岳

16:45山上櫻本坊泊着(Hotel Serial No.456)階段の連続で和田君の登坂速度が極端に落ち、標準の2.5倍かかった。宿にリュックを置き、山頂の大峯山寺におまい りする。 日没直前でドアは閉じていた。

大峯山寺

佐藤さんとの団欒

宿坊は洞川の「龍泉寺」と吉野山の「喜蔵院」、「櫻本坊」、「竹林院」、「東南院」の5つある。我々が予約した櫻本坊が一番大きい。 櫻本坊では風呂のサービスがうれしい。夕食は質素なものだ。味噌汁に具は入っていないがコンブのダシが利いてうまい。やはり関西だと感ずる。

夕食後管理人の佐藤さん差し入れの焼酎と日本酒で話しが弾む。佐藤さんは大分出身。京都大学経済学部卒、大和銀行で大過なく過ごしたが、定年後、頼まれて 山上櫻本坊の管理人になったのだという。和田君が奉職した会社の副社長は佐藤さんの高校時代の同期生だと分かって世の中は狭いということになった。

佐藤さんによれば五十日行をしている若者は毎日全ての宿坊を廻ってお経を上げるのだそうだ。金曜日の宿泊は我々だけであったが土曜になれば三井寺(みいでら)が組織した行者が45名登ってくるという。

佐藤さんは当然大峯奥駈道を全て踏破しているが、弥山(みさん)より南は「やまひる」が出没するという。

櫻本坊の風呂は櫻本坊専用の溜池の水を使っているという。飲み水は麓に湧く湧水をポンプで山頂に送水しているという。銘水といわれるゴロゴロ水と同等の旨 さという。荷物は週1回、ロープウェーで引き上げているという。洞辻茶屋へはモノレールが通じていて高齢の僧が使っているという。

私はここで孫のためにお守りを買ったが、和田君はここで佐藤さんに御朱印を書いてもらう。そしてここには入山禁止の巡礼仲間のために御朱印を一枚余計に頼 んだ。


第三日(5月23日土曜)

本日は櫻本坊から麓の清浄大橋までの下山ルートである。総距離6.47km、累積登り128m、累積下り 858m。

12:25洞川温泉発のバスに間に合うために6:00出発とした。佐藤さんがパスした西の覗き、我々が知らずにパスした 難所の鐘掛岩や油こぼしに案内しよ うと長靴を履いて一緒にでかけた。

櫻本坊にて

西の覗きでは修験の講に入ったばかりの新客はロープを着けてこの岩場から中釣りにされるのだという。ロープなどは脇のロッカーに格納されている。あいにく のガスでなにも見えない。

我々が知らずにパスした難所の鐘掛岩はさすがに垂直の岩場である。途中まではクサリもなく、岩の割れ目を登らなくてはならない。 油こぼしはこの鐘掛岩の下にあって油をこぼしたようによく滑ることからこの名が付いたという。

鐘掛岩

佐藤さんは我々を油こぼしと陀羅助茶屋の間にある「みいじい」経営の小屋に案内してくれる。この方は松尾さんといい、兄二人が徴兵されたが無事、帰還した ため 、山の仕事を継ぐのをあきらめ大阪府警に務めたが、退職金でこの山のほうぼうにに石碑をたて、現在このこの小屋の管理人をしているのだという。お茶をいた だき、色紙に山伏修行の山先達の印をしていただいた。

みいじいの山伏修行の山先達の印

おいとました後は洞辻茶屋からまっしぐらにお助け水経由清浄大橋に下る。和田君の膝が痛んで、ゆっくりしか下れないため、これ幸いと立ち止まって待った。 登ってくる講の行者は200名以上いただろうか。こちらが関東の流儀で「こんにちは」というとみな「おまいり」と応えるところがちがう。我々もついに「お まいり」というようになった。

登ってくる講のなかで数%の人が完璧な山伏の白装束を着用している。息子を連れた山伏がいたのでお願いして写真を取らせていただいた。昨日在った五十日行 をしている山伏と同じ黄色ではあるがこちらは袴が黄色い。何故かと 聞くと修験道には三本山があり、寺院毎にデザインが微妙に違うのだという。三本山とは醍醐寺・聖護院・金峰山寺である。

山伏の親子

清浄大橋が女人結界となっていて、そこまではバスやタクシーが家族でやってきている。それぞれの講が建てた記念碑が沢山ある。なかには山伏の姿でホラ貝を 吹いている人も居る。

清浄大橋に着いたのは11:00である。下山に5時間かかった。コースタイムが3.5時間が1.5倍である。タクシーを拾って洞川温泉バス停まで移動し、 予定より1時間前の11:25発のバスに間に合う。

洞川(どろかわ)温泉11:25 発→(奈良交通バス・大淀バスセンター)→下市口駅12:36着13:24発→(近鉄吉野線急行・大阪阿部野行)→吉野口→(JR和歌山線・和歌山行き) →橋本→(南海高野線)→極楽橋13:26着→(高野山ケーブル)→高野山 着

JR 和歌山線・和歌山行きは途中、五条市を通過する。もと西吉野がすべて五条市に合併された。昭和の初めにこの五条市と紀伊半島突端の新宮市を結ぶ五新線とい う鉄道が着工され途中まで建設されたが、途中戦争などで遅れ、地元の反対もあり、1981年に工事途中で放 棄された。その人間模様を河瀬が1997年に「萌の朱雀」という映画にして数々の国際賞を受賞した。今もその線路跡がバス道路となり、賀名生(あ のう)バス停などの地名に残っている。なんとこの辺りは南朝があったところとか。

奈良交通バスは紀ノ川の上流の吉野川を渡って近鉄の下市口駅に着く。JR和歌山線は紀ノ川の北岸を西行する。南海高野線は橋本駅をでてすぐ紀ノ川を渡る。 いわばにバス、電車の移動は中央構造線上をうろうろすることなのだ。

高野山ケーブルのあとは高野山の路線バスにのり、明治5年に女人禁制が解かれるまで使われた女人堂の前を通って千住院橋にある高野山観光協会に着く。 (0736-56-2616) ここで料金12,000円の特別料金を支払い、不動院宿泊券、高野山参詣講待遇之証、護摩木、明日の音声ガイドセット、明日借りる自転車などの説明を受け る。不動院は山階宮家 の菩提寺であり、鳥羽天皇皇后美福門院もここに埋葬されているそうで、格式が高く良かった。建物に使う用材が関東のものに比べ高価な材を吟味しているとこ ろにゆとりというか文化の深さを感じる。廊下もタタミ式である。(Hotel Serial No.457)夕食は枯れ山水を 見ながらの個室であった。


第四日(5月24日日曜)

朝7:00に朝のお勤めに参加。3名の坊さんがお経をあげるのだが上手い。外国人婦人の二人連れに説明する住職の英語はキングズ・イングリッシュだった。 外国人婦人の二人連れ、若い女性の2人連れなど女性優勢である。朝食は御簾の垂れる部屋で摂る。

不動院の朝食

朝食中に雨になった。少し様子を見ているうちに9:00に雨は止む。

雨の不動院

高野山観光協会に移動し、ザックをコインロッカーに格納し、自転車を借りる。これで一の橋まで移動。途中、右手に刈萱道心と石堂丸が庵を結んだ刈萱堂がある。中の 橋を通り、杉木立を1.5km歩くと弘法大師御廟の奥の院だ。周りは大名の墓が列をなしている。歴代天皇稜まである。

島 津家墓所の前には慶長の役から帰国した島津義弘・忠恒(家久)父子が、敵味方の双方の戦没者の菩提を葬うために建立した敵味方供養塔高麗陣敵味方戦死者供 養碑がある。石材は琉球石。1887年に発足した日本赤十字社が国際赤十字社に加盟を申し込むも、拒否された。ところが、高野山奥の院のこの「高麗陣敵味 方戦死者供養碑」の故事によって加盟が承認されたのである。

御廟橋より奥は撮影禁止となる。

御廟橋より奥の院を望む

取って返して小辺路(こへち)入り口を確かめるために千手院橋東より国宝多宝塔に向かう。かなりの登り坂 だ。

小辺路入り口の標識

大門まで自転車をこいでゆく。巨大な総門(1705年再建)が山のはずれにあった。

大門

取って返して弘法大師創建の真言密教の根本道場としての壇上伽藍はパス。高野山真言宗の総本山金剛峯寺を参詣する。

高野山真言宗の総本山金剛峯寺

高野山散策後→(高野山ケーブル)→極楽橋→(南海高屋野線)→難波駅→(地下鉄御堂筋線)→新大阪→(新幹線)→新横浜→東京

2017/9/23 NHKのブラタモリでなぜ高度800mの高地である高野山に巨大な都市寺院を維持できた理由の説明があった。

@高野山は廻りを水を通しにくい粘板岩の山で囲まれた窪地のため、地下水が豊富で水が涸れることはなかった。
Aまた大名から寄進された広大な領地を持ち、年貢米と野菜が切れることはなかった。
B女人禁制のため、ここで生まれる人間はいない。したがって常に若い僧を供給する必要があるが、各寺が宿と寄宿学校をもち、大名と契約して若い僧候補者を 補給して人口維持を行った。
C瓦は寒いため使えず、ひはだ葺のため火事に弱いという弱点を持っている。そのため独自のスプリンクラーシステムを持っている。

June 4, 2009

Rev. June 14, 2018


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