那智から本宮に抜ける中辺路

大雲・小雲取越

2010年6月2日から1年越の懸案である那智から本宮に抜ける中辺路(なかへち)大峰奥駈道以来の仲 間である和田さんと歩いた。(峰と 峯とどちらだ正しいかわからないが、ここでは 昭文社の山と高原地図に使われている峰とした)熊野古道といえば一般的にはバスで点と点を結んで移動するのだ が、我々は古道を自らの足で歩くことに意味を見出している。

熊野三山とは熊野本宮大社+熊野速玉大社+熊野那智大社+青岸渡寺(せいがんとじ)+補陀洛山寺(ふだらくさんじ)のことである。三社はそれぞれ自然信仰から発し、本宮は第10代崇神(すじん)天 皇、速玉は第12代景行天皇(『扶桑略記』)、那智は第5代考昭天皇(第16代仁徳天皇という説もあり)のとき、インド出身の僧 、裸行が開基した。次第に主祭神を相互に勧進して「熊野三所権現」となった。神仏習合思想では神を権現と呼んだ。大社の建築様式は熊野権現造というそれぞ れの神が独立の 神殿を持つ様式となっている。

新潟県の妙高山麓に開山神社を開き、熊野信仰をもたらしたのも裸行という。裸行と呼ぶのはいつも裸でいたからという。

熊野詣とは熊野三山に詣でることである。その順路は京都を出発し、船に乗って淀川を下り、現在の大阪市天満橋の辺りで上陸。海岸沿いの熊野街道を熊野の玄 関口といわれた田辺まで南下。田辺からは中辺路の山中の道を東進し、本宮へ向かう。そこから熊 野三山の新宮と那智に行くルートは本宮から熊野川を下って新宮に行き、そこから那智へ歩いた。那智からは新宮へ歩いて戻り、熊野川を遡行して本宮に戻ると いうのが主ルートであった。

赤線が古道、紺色は自動車道

熊野御幸(ごこう)は平安時代の宇多上皇の907年に始まり、鎌倉時代の亀山上皇1281年まで374年 間、100回以上行われたという。50 万年のタイムスパンの気候変動の原因に書いたようにちょうどグリーンランドの氷河に記録された900-1100年の中世温暖期と呼ばれる気候温暖 な時代である。

後白河法皇33回、後鳥羽上皇28回、鳥羽上皇・法皇2回、白河上皇・法皇12回と天皇を引退し、仏門にはいった法皇が多い。人数は多いとき814人、少 ないとき49人、平均300人だったという。 後鳥羽上皇の最後の御行は鎌倉幕府倒幕の密議をするためであったという。公家政治は1221年の「承久(じょうきゅ う)の乱」で完敗することをもって終りを告げ、以降武家政治となる。 中世温暖化も終り、寒冷化に向かっていたのも関係あるのかどうか。

那智の背後 「大雲取越、小雲取越」は本宮に戻る主ルートが雨による増水で使えなくなったときのサブ・ルートであった。武家政治となり、西国三十三所観音巡礼が盛んに なってからは「大雲取越・小雲取越」で本宮に戻り、再び中辺路を通って田辺 経由都に帰っるのが順路になったという。往復約600km、およそ1ヶ月かけて歩いたという。昔の人は一日で「大雲取越え・小雲取越え」をしたという。

「大雲取越・小雲取越」は西国三十三所観音巡礼が普及する前の文献には唯一、後鳥羽上皇の4回目の熊野御幸に従った藤原定家が記した『後鳥羽院御幸記』に 見られるのみという。

我々の行程は那智で前泊。早朝那智を出発し、大雲取越をし、小口で一泊、小雲取越をして「湯の峰温泉」泊、最終日に田辺からの中辺路の発心(ほっしん)王子から本宮までも歩いてみようという意気込みででかけた。

ところで王子とは何かでであるが、熊野三山の子という意味で八幡宮の若宮と同じ意味である。古道に沿って99ヶ所あるとされる。ここで休憩し、般若心経な どの経供養をするのである。

高野山は女人禁制であるが熊野は男女猥雑、病人、弱者救済の場所とされた。


第一日(6月2日)

那智までの移動はJRだ。ジパング倶楽部の割引は「のぞみ」には適用されない。「ひかり」に乗ってでかけた。

5:30起床、6:18江ノ電最寄駅発→新横浜7:52発→(新幹線ひかり503号)→名古屋駅9:21着、9:58発→(JR特急ワイドビュー南紀3 号)→新宮13:25着、13:49発→(紀勢本線 串本行)→那智駅14:11着。

紀勢本線は長い。延々と走り続ける。金に糸目をつけなければ大阪まで新幹線でゆき、そこから紀勢本線を田辺まで南下し、バスで本宮に向かったほうが時間は 節約できることに気がついた。津を過ぎたころから寝入ってしまい、目が覚めたら尾鷲だった。たしかここに 太陽石油の製油所があったと記憶していたが、目に入ったのは東邦石油の製油所と火力発電所の長いジェッティーであった。入江が美しい。

新宮直前に熊野川を渡ってすぐトンネルに入る。トンネルは新宮城のある小高い丘を貫通している。新宮で4両連結のワンマンカー乗り換える。那智駅は完全無 人駅で、一番前にいる電車の運転手に切符を渡さないと下車できない。気が着くのが遅れて、下車しそこなうところであった。

駅前の補陀洛山寺と浜の宮に向かう。両者は並んでいる。中世には海岸が補陀洛山寺前までせまっており、ここから船にのって補陀洛渡海(ふだらくとかい)をした僧も居たという。 中世温暖期のため、6,000年前の縄文海進と同じように海面上昇があったのかもしれない。

補陀洛山寺

浜の宮

駅にもどるも次ぎのバスまで1時間半もある。熊野バスは駅前の補陀洛山寺と浜の宮参拝の時間を見込まない時刻表をつくるという観光客へのサービス精神なし の役所のような会社と思い知る。歩いても青岸渡寺まで2時間の行程だ、待つよりましと歩き始める。4時までに青眼渡寺に到着しないと朱印はもらえない。バ スに追い抜かれないようにバス通りを歩く。3km歩いたところでバスを捕まえ、大門坂下で下車。250円で済んだ。ここから大門坂を登る。

 

大門坂入り口にたつ夫婦杉

長い石段を登って青岸渡寺に着いた時は4:35であったが、朱印を書いてくれた。これで西国33ヶ所巡礼はみなし満願としよう。

熊野那智大社

青岸渡寺

我々が外に出た途端、それを待っていてくれたようにドアを閉めた。隣の熊野那智大社におまいりして本日の民宿 美滝山荘17:00着。(Hotel Serial No.479)

チェックイン後、那智の滝を見に出かける。日本一の落差という。優美だが、水量が細く、少し期待はずれ。

那智の滝

福井から70才半ばの老夫婦がトヨタ・クラウンで来ていた。明日は我々と同じコースを歩くという。アルプスには一人でよく登ったが、もう体力の衰えで無 理。そこでここなら歩けるだろうと老妻を連れてきたという。車はここに置き、本宮からはバスで帰るつもりという。

 

第二日(6月3日)

本日は那智から中間点の小口自然の家までのルートである。総距離14.25km、累積登り993m、累積下り 1,219m。

6:30起床。7:00朝食、7:30出発。グーグル地図で青岸渡寺周辺の地図を見ながら最短距離で古道入り口にたどり 着く。古道は石畳と石の階段の連続 である。

小休止

すこし登ると那智高原というかって天皇をまねいて行う植樹祭のために森林を伐採して造成した公園に入る。ここで古道が消滅し少し迷う。公園には広大な駐車 場があるが早朝のためか一台もなし。このような施設は世界遺産にははなはだ迷惑。 つらつら思うに植樹祭なるものは最早森林破壊以外のなにものでもない。古道は尾根伝いに高所に付けられピークは巻いている。舗装された林道が古道にまとわ りつくように平行につけられている。

船見茶屋からは熊野灘が見えるというが鬱蒼たる杉林でなにも見えず。GPSも自分の位置を発見できす。色川辻から谷に下ると物故した縁者や知人が白装束姿 で現れるのを目撃するとの言い伝えがあり、ダル(ヒダル神)やガキ(餓鬼)と呼ばれる亡霊にとりつかれ、異常な空腹感に襲われて死に至るとの伝承を南方熊 楠が記録しているという 。

色川辻から少し西の和歌山県那智勝浦町口色川妙法山北西5q大野集落北2q色川富士見峠(従来の呼称の「小麦峠」から「色川富士見峠」に名称変更)(日本 測地系)北緯33度41分26秒東経135度51分05秒(世界測地系)北緯33度41分38秒東経135度50分55秒 標高約900mの地点が富士山 最遠望の地だと後に知る。京都市の京本孝司、仲 賢両氏が2001年9月12日午前5時10分熊野灘と志摩半島南端麦崎の灯台越しに撮影

しかし残念なことに色川辻から谷に下る古道は台風18号のがけ崩れで通行止めだという。中間点の地蔵茶屋の1.3km手前から古道の維持が面倒になったの か林道を歩く羽目になる。このような手抜きは世界遺産の名にもとる行為だ。

途中シカを見る。植林した杉林の8割は間伐もされていて美林であるが、手入れされていない林もある。広葉樹の苗木にプラスチックカバーをして食害を防止し つつ広葉樹林への転換を試みているところもあった。

地蔵茶屋跡で昼食。

地蔵茶屋を過ぎるとようやく古道に戻った。最高地点の越前峠に歌碑がある。

輿の中 海の如しと嘆きたり 石を踏む丁(よぼろ)のこ とは傳へ寸    土屋文明

1201年後鳥羽上皇の熊野御幸のお伴をした藤原定家の記述を思い起こして、土屋文明が詠んだ歌である。「よぼろ」とは課役に招集された人足のこと。定家 としてはよぼろの労苦など少しも気が廻らなかったのかどうか?雲助という言葉はもしかしたら大雲取越の駕籠かきを語源とするのではないのかとフト思う。 定家としては雲助とでもいう思いだったのかもしれない。

石畳の胴切坂を下ると楠の久保旅籠跡にでる。江戸時代にここは沢山の旅籠があったという。かなりの規模の旅館街であったことはその基礎石から推察できる。 近くに湧き水があり、風呂が売り物であったことがうかがえる。いまは杉の植林地だが江戸時代はここは広葉樹林だったのだろう。

さらに下って熊野の神々が集まったという円座石(わろうだいし、わろうざいし)を過ぎれば、今日の終点近 い。 円座石には梵字が3つ彫ってある。熊野三山を代表しているらしい。標高差800mの下り、16:10小口自然の家着。(Hotel Serial No.480)8時間40分かかったことになる。

円座石

小口自然の家がなければ雲取越は不可能だ。元小学校が廃校となったので古道歩きの客の便宜を図るために宿に改造したものである。山好きの皇太子の写真が あった。

我々より一歩先に着いた。神戸からの人が一人、遅れて着いた福井の老夫婦と我々を含めて5名が宿泊客であった。神戸からの人は姫路城近くの27番札所には よく散歩かたがた立ち寄るという。屋久島にも行ったが大雲取越のほうはキツイという。

夕食を摂っていると、明日の宿である湯峰温泉の民宿小栗屋から電話があった。夕食を作って待っていたが、着かないので 途中遭難したかもしれない。朝出発したのかという問い合わせであった。和田氏が予約したとき、3日目に泊まるといったのを、6月3日と勘違いしたらしい。 予約の時は余計なことは言わないほうが良い。出発前にも確認の電話が入ったが、肝心の日付けの確認はしなかったらしい。明日は工事で営業できないので隣の 「湯の谷荘」に泊まってくれという。

板橋区在住の和田氏が東京都と、板橋区との両方から、無形文化財指定を受けている説経浄瑠璃、(説教節)家元、3代目、若松若太夫さん支援者の青木久子さ んから勧められた宿だったので残念な思いだ。

 

第三日(6月4日)

本日は中間点の小口自然の家から本宮近くの 湯の峰温泉までのルートである。総距離12.05km、累積登り791m、累積下り796m。

5:30起床。6:00朝食、6:30小口自然の家を出発。福井の老夫婦はバスで本宮に向かうという。

小口自然の家

小雲取越は高低差も400mと小さく楽である。昨日は鬱蒼とした杉林のなかで、何もみえなかったが、小雲取越は広葉樹林が多く、見晴らしは良い。小口から 登り始め振り返ると昨日越してきた大雲取越の山並みが見える。 左のピークが大雲取山(966m)である。

大雲取越の山並み

ここのリスは古来の日本リスだ。大きなヘビを2匹目撃。

林道交差地点から如法山(609m)の山腹をトラバースしながら登ると「百間ぐら」という見晴らしのよい場所を通過する。直下が岩場になっているため、樹 木が視野をさえぎらない。カシミールで調べると見えたのは西北西の方角である。標高1,000mを越える果無(はてなし)山 脈の西のはずれにある冷水山(1,262m) は視野の右端にある。本宮はその直下に見える。そして東面の杉林が伐採されて裸地となった大日山(369m)がはっきりと見える。大日山の西側の谷間に本 日の目的地である湯の峰温泉があるのだ。

果無山脈は奈良県と和歌山県を隔てる山脈である。高野山と本宮を結ぶ小辺路は果無山脈をこえなければならない。果無山脈の東端は熊野川で終わる。

眼前に広がるのは果無山脈の南側にあり、南北に横たわる低い山々である。田辺からの中辺路古道はこの山地の河川を避けて微高地を選んでつけられている。中 央にみえるのは多分三日森山とか高尾山(944m)であろう。地蔵のはるか遠方に見える尖った山は野竹法師(971m)である。

百間ぐらからの見晴らし 

朝日の記者が林道交差地点まで車できて安直に「百間ぐら」まで往復した記事を読んだことを覚えている。そして雲取越を何時か歩いて見たいと思ったことを思 い出す。

百間ぐらから あとはただひたすら下って熊野川を一望できる地点に到達する。国道168号に辿りついたところに請川バス停があった。時刻表を見ると1分後の13:10に 湯の峰温泉行きのバスが来ることが分かった。ラッキー。これで平地を2時間歩く必要はなくなった。

500m毎に設置したというマイルストーンが大雲取越では那智から小口まで28あった。小雲取越では地図上では請川から小口に向かって番号が付けれれてい るが、実際には小口から請川に向かって通し番号が打たれている。55番まで数えた。

湯の峰温泉は古い温泉地だ。小栗判官(おぐりほうがん)がここで治療して治ったと説教節が伝える「つぼ湯」 があった。 世界遺産に温泉が登録されたのはここが最初だという。川底の岩に穴があり、そこから湯が湧いているのだそうだ。藤沢の遊行寺に小栗 判官と照手姫(てるてひめ)の遺跡があるが、ここで再会するとは思わなかった。

小栗判官の許婚の照手姫の実家は相模の豪族横山一族。小栗判官は横山一族に毒殺されるが蘇生した。藤沢の上人は彼を土車に乗せ、熊野の湯峰温泉に治療のた め送りとどけられるようにと、この土車を引き、助けたものには功徳があると胸札に書いた。美濃の青墓の宿に売られていた照手姫も容貌が変わってしまった夫 とは知らず、大津の関寺まで5日間も引いている。湯の峰温泉で回復した小栗は京都に出て出世し、照手姫とも再会するというハッピーエンドのお話しである。

つぼ湯

湯の峰温泉 東光寺

一遍上人は熊野本宮で悟りを開いたため、時宗系の念仏聖は民衆に小栗判官の話を語ってきかせた。大衆芸能である説教節にも同じ話が使われたようだ。説教節 にはこの他にも「刈萱(かるかや)」、「山椒太夫(さんしょうだゆう)」 がある。

長野市には刈萱道心と石堂丸の話で知られる刈萱上人が没した地に刈萱堂往生寺や刈萱山西光寺がある。高野山刈萱堂は石堂丸親子が修行した場所と伝えられ る。

湯の谷荘には予定より早く着く。温泉に浸かり、午睡をとる。温泉は硫化水素の臭いがする。(Hotel Serial No.481)小栗屋の主人は安 井理夫先生という。学校の先生をしていたのでこの温泉の全員の先生だという。引退後は郷土史家となっておられる。先生からいただいた資料を読んで、小栗判 官を湯の峰温泉まで乗せてきた 土車を埋めたという車塚まで小栗街道を本宮方向に散策に出るが、距離がありすぎて挫折。途中 、大日越の登り口を見つける。かなりの急坂である。神戸からの巡礼者は明日、ここを越えるという。

大日越の登り口

小栗街道とは紀伊路・中辺路ルートに地元がつけた名前である。熊野街道ともよばれる。

第四日(6月5日)

6:30起床。7:00朝食。当初のプランは8:03湯の峰温泉発の龍神バスで発心門王子まで移動するつもりであったが、安井理夫先生が案内方々、プリウ スで送ってくれるという。先生作成の参考資料をいただき、8:15出発。教え子である宿の女将も見送ってくれる。途中車塚を見る。

車塚

本宮の前を通って発心門(ほっしんもん)王子に向かう。8:35着。

発心門王子にて安井理夫先生と

田辺から来た熊野詣での人はこの鳥居をくぐると熊野三山の聖域に入ることになったのだそうである。海抜315m。藤原定 家は807年、ここを訪れ、王子の裏側にあった尼の宿坊に泊まっている。ここにはブナ科のイチイガシの巨木があった。先生によると杉は北面のほうが生育が 良いという。杉は乾燥に弱いためという。

水呑王子まで先生の車で送ってもらう。途中養蜂家に立ち寄る。ここではミツバチは樽のなかで飼う。水呑王子には明治9年 に組合立拝伏小学校があったが設立されたが、昭和48年廃校となり。一時、観光業者が買い占めて営業したが 、結局事業は立ち行かなくなり、静かな土地にもどったという。

ミツバチの巣

水呑王子から徒歩で伏拝(ふしおがみ)王子に向かう。桃源郷のようなところだ。ここではお茶が栽培され「音 無茶」として販売されているという。伏拝王子の少し手前で、大阪から週末に通っているという北野政代さん経営の「お茶屋」で休憩。 コーヒーとクッキーが疲れを癒す。北野さんはここで菜園を楽しむのも目的の一つだとか。成果物のトマトにかぶりついて出発。このお茶屋から西の方角、今来 た道をふりかえると発心門以降の古道がある尾根が見える。目を北に転ずれば、果無山脈の一尾根である「三里富士(百前森山)783m」が見える。 小辺路は果無山脈を越え、百前森山を巻いて本宮に下っているのだ。

水呑王子から伏拝王子への中辺路

三軒茶屋跡では小辺路からの古道と合流する。高野山で小辺路(果無街道)への入り口をさがしたが、ここで小辺路の出口を目撃することになるとは。石の道標 に「右こうや19里半、左きみい寺31里半」とある。ここには九鬼ヶ口関所というものがあって通関料をとっていたらしい。

小辺路入り口の標識

小辺路合流標識

祓殿(はらいど)王子をすぎて熊野本宮大社12:00着。明治22年の洪水で熊野川支流の中の洲にあった旧 社殿は流されたため、祓殿王子があった小高い丘の上に主神の四神殿が移築されたものである。本宮は撮影禁止だ。やむを得ず拝殿を撮影。

本宮の拝殿

熊野本宮大社は明治22年の洪水前まで旧社地「大斎原(おおゆのはら)」にあった。いまは森がのこるだけだ が最近建設された鋼鉄製の巨大な鳥居が3本足の八咫烏(やたがらす)をつけて威風堂々と建っている。八咫烏 は太陽の使いとされることから熊野の祭神は太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。八咫烏の 三本足の1本は男根であるから天照大神は男神だという見解がある。そういえばコロラド高原にのこしたアナサジ・インディアンが残した線画のイメージも似ている。

鎌倉時代 に一遍が参篭し、神託を受け時宗を開いた。

旧社地「大斎原(おおゆのはら)」

門前で蕎麦の昼食とする。13:20発の熊野交通バスを待っているとバスと同一料金で熊野速玉大社(新宮) に40分で行けるというのでこの提案に乗る。それならと神倉神社に連れていってもらう。14:00上倉神社着。急な石段を500段登り、ゴトビキ岩にゆ く。あまりの急勾配のため手をついて登る。頂上にある大きな岩は熊野大社のご神体である。海抜100mである。下りは女坂をとったが、がけ崩れでかえって 歩きにくい。

神倉神社

熊野速玉大社まで歩く。新宮はコンクリート造りで少しがっかり。

熊野速玉大社

新宮駅まだグーグル地図を見ながら最短距離を歩く。 新宮駅前には徐福にゆかりの徐副公園がある。

徐福は今から2200年ほど前、秦の始皇帝に仕えた高官である。強大な権力を持った始皇帝は、全てのものを手に入れたが、残された最後の望みが「不老不 死」であった。そこに登場したのが方士(神仙思想の行者)徐福であった。徐福は海のはるか東方に蓬莱という山があり、そこに不老不死の薬草があると欺き、 資金と船、医師や技術者などのスペシャリストを要求し、3千人の人々と船出したことになっている。そして、難破しながらもたどりついたのが熊野新宮である というのだ。徐福は始皇帝の元には帰るつもりはなかったらしい。

新宮駅15:30着。ここで日経と文芸春秋を買って世の動きにキャッチアップ。山にこもっている間に鳩山から管に交代。小沢を道連れにしたのは評価でき る。新宮駅17:28発→(JR特急ワイドビュー南紀8号)→名古屋20:44着、21:23発→(新幹線ひかり532号)→新横浜22:51着 。江ノ電は江ノ島どまり。あとは自宅まで歩く。今回の旅の損失はツバ広の帽子であった。

湯の峰温泉と本宮と藤沢の遊行寺が時宗で関係があり、高野山と長野市の刈萱堂と刈萱山西光寺がそれぞれ関係があり、那智とインドと妙高もつながっている ことを発見し、日本は狭いなと思う。

それにしても熊野三山の神々は融通無碍に変身し、どこが宗教かとおもう。日本らしいといえばそれまで。マー、一神教のような教条主義的なところがないので よしとしよう。これで寺社めぐりは卒業のような気がする。

参考文献

1. 小山靖憲著「熊野古道

2. 安井理夫先生作成資料

3. 和歌山県の観光パンフレット

June 16, 2010

Rev. November 22, 2017


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