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1450

古事記神話の高天原
2015/01/03

學士會会報January N0.910 2015-1に奈良県立図書情報館館長の千田稔博士の「古事記神話の高天原」という考察が掲載されていた。

吉野川の上流部に川が蛇行している部分の吉野川の北岸に宮滝遺跡というものがある。持統天皇が34回も行幸した吉野宮が此処にあったことはほぼ考古学的に 確定されているという。なぜ持統天皇が34回もここに来たのかだが、「壬申の乱」の密議をしたところだからというのでは理由が薄弱である。そこで、千田博 士は古事記の高天原を取り出す。

そもそも古事記は 八世紀のはじめ、太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇の命によって編纂(へんさん)し 献上したことになっているが、実は天武天皇が豪族達が所有する帝紀や本辞(旧辞)には誤りがあるのでそれを修正するために天武天皇が選んだ旧辞を稗田阿礼 に誦習せよと命じた。これを受け天武天皇と持統天皇の間に生まれた草壁皇子の妃であった元明女帝が太安万侶に稗田阿礼の覚えた旧辞を成書にしたものが古事 記である。

宮滝遺跡は天智・天武の母である斉明天皇によって造営された。この地は天武・持統にとっては唐にならった嫡子相続制へ移行されようとした天智に逆らった 「壬申の乱」の決起を誓った盟約の地であったのであるが、それだけで持統天皇が34回もここに来たことは解せない。宮滝遺跡に立って南面すると奇岩のある 吉野川の向う岸に青根ヶ峰が望める。その先が金峰山。飛鳥王朝は道教に傾注していた。古事記は天武天皇とその后だった持統天皇が信じた道教の世界を反映し た書物だったと考えられる。神が住む場所を高天原とし、その高天原に最も近い吉野宮で祭祀するために何度も足を運んだのだろうと。

高天原は古事記にはでてくるが日本書記には一言も触れられていない。だが神代紀第一段の第四の一書と養老4年(720年)に代々の天皇とともに持統天皇に つけられた和風諡号「高天原廣野姫天皇」とある。ここで注意すべきは青根ヶ峰には水分(みまくり)神社の旧社地があり、山腹に広野千軒とよばれた集落が あった。わたしは参加できなかったが大台ヶ原山登山に参加された方々が散策したのは高天原広野だったというわけ。和田氏に連れられて一緒に吉野の青 根ヶ峰近くから山上ヶ岳まで縦走したが、あそこは古事記に記載ある高天原のモデルだったということになる。

天武・持統天皇陵が八角形であることも彼らが道教を信じていた証拠。中国の北周の時代の道教経典「九天生神章経」に万物を生み出す根源の「祖気」たる三神と古事記の高天原の三神は関連していると考えられる。。日本書記をみると後代の天皇はこの考えを否定し
ている。

そもそも修験道は道教の影響下ではじまり、仏教が混じったという考えのようだ。大峰奥駈道は「修験」と「御嶽詣」の霊場であるということがなかなか合点いかなかったが、これで理解できたような気がする。

この説は九州王朝説をほぼ完全に否定するものだろう。


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