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和歌山市
 『大和街道』は、和歌山県北部を流れる紀の川に沿い、古くから和歌山と大和を結ぶ道として大勢の人々が行き交い、たくさんの文化遺産も残っている。大和街道 和歌山
大和街道は、都が奈良におかれていた頃、都と各国を結ぶルートの一つとして誕生した。まさに歴史の宝庫と呼ぶにふさわしい。歴代の天皇たちの御幸のルートでもあり、参勤交代の道筋でもあった。
歴代藩主の参勤交代は240年間で97回にも及んだといわれている。
街道ができてから、行き交ったたくさんの旅人が詠んだ万葉歌が、船岡山、妻の杜、背の山、飛越石などに今も残されており、歌碑などもあちこちに建っている。
平安時代に弘法大師が、高野山を開山した。
安土桃山時代には、岩出町の根来寺が織田信長に攻撃され根来の鉄砲隊が応戦したが、焼き払われてしまった。その鉄砲の弾跡は今も残っている。
そんな大和街道は、和歌山城を北上した所にある京橋が出発点である。京橋の上には、殿様の籠と紀州手まりのモニュメントがあり、時報をまりと殿様が告げてくれる。

ここから大和街道が始まる。
1:和歌山市1(京橋)
岩出市
2:岩出・西田中神社
紀の川市
3.東田中神社.粉河寺・長田観音・旧名手本陣
かつらぎ町
4.かつらぎ町
橋本市
5.橋本市、名古曽廃寺、応其寺、八幡神社
五條市
6.御霊神社、天誅組本陣、新町、五新鉄道 
■奈良こだわり歴史散歩

大和街道 和歌山 大和街道 和歌山
(紀州手まりのモニュメント)
<和歌山市>

 京橋は真田堀川にかかる橋である。昔は様々な汚水が流れ込み悪臭を放っていたが、最近はかなり浄化が進み、ボラもあがってくるようになった。
しかしまだ汚い。早く綺麗になって川底が見えるようになってほしいものである。紀州手鞠のモニュメント右にちらりと見える川中の白い構造物は、浄化装置である。
京橋から、和歌山市の中心的な商店街である、ぶらくり丁をこえていく。ぶらくり丁は活性化をいわれだして久しいが、日曜日でもこの人通りである。少し寂しい。

国道に入る手前に幅がひどく狭い橋がある。地元の人は「一銭橋」と呼んでいるが、昔はこの橋を渡る際に一銭徴収したらしい。今は車一台がやっと通れるような橋で、交通量が多いためいつも信号待ちでたくさんの車が並んでいる。しかしもうすぐ新しい橋が架かる。写真左の青いのが新しい橋の橋桁で、ここに国道26号が延びてくる。これで少しは渋滞が緩和されるだろう。
橋を渡らずに右に折れると、国道24号線に入る。
国道24号に入ってまもなく白壁の嘉家作りの家並みが見えてくる。昔は路に面した家並みすべてが、こんな白壁の建物であったが、今は新しい家が多く建ち街道の面影が薄れつつある。
大和街道 和歌山
(ぶらくり丁入り口)
大和街道 和歌山
(一銭橋)
大和街道 和歌山
(嘉家作りの家並み)
大和街道 和歌山
(このあたりでお世話になった熟年も多いはず)
大和街道 和歌山 大和街道 和歌山
(地蔵の辻のお地蔵さん)

そこを過ぎると国道24号線と県道有功天王線の交差点に出る。ここがかつて直川観音へ行く人々で賑わった地蔵の辻である。地蔵さんとしてはかなり大きな祠がある。
この辺も道路改修などで昔日の面影をなくしつつある。
町屋は、堤防をうまく活用し、二階が玄関で、居間が南向きの一階となっている。
便利さを追求するあまりに、こうした趣のある町並みが一つずつ消えていくのが寂しい。
この辺は歓楽街があり、にぎわった時代もある。今でも名残をとどめる造りの家があり、時代の変遷を感じる。

大和街道は24号線をさらに東へと続いている。

地蔵の辻をさらに東に進むと、JR阪和線の高架とであうがその下に小さな松原地蔵尊があり、由来がかかれている。比較的新しい地蔵さんである。
そこからさらに行くと、饅頭のような盛り土の上に松が植えられている四箇郷一里塚がある。
1619年(元和5年)に徳川頼宣が大和街道、大坂街道を整備して一里塚を設けたという。この一里塚はその第一号という。しかし現在の一里塚は、ほとんどその機能を果たしていない。周りに雑多な施設が多すぎる。
周囲にあまり建物もなく田などが広がっていたときは、この一里塚までくると、やっと和歌山に帰り着いたという気持ちになったのではなかろうか。

一里塚をすぎてほどなく四箇郷刑務所がある。ここの建物のスタイルがクラシックで前の桜並木とマッチして、好きであったが建て替え中である。またいい建物が一つ減ってしまう。

大和街道 和歌山
(四箇郷一里塚)
大和街道 和歌山
(松原地蔵尊)
大和街道 和歌山
(四箇郷刑務所)
大和街道 和歌山
(名前は分からないお地蔵さん)
大和街道 和歌山
(隣にある身代わり地蔵さん)
大和街道 和歌山
(成田山不動明王)

大和街道は、雑然とした町並みの国道24号をさらに東へ東へと歩を進める。大和街道 和歌山
阪和高速道路の高架下をくぐってからは少し斜め左に折れ24号から離れ、旧家らしい町並みの路地を行く。
街道は、さらに東へと続き、八軒家の旧道に入る。
途中の家並みは街道にふさわしいたたずまいを見せる。
その周辺は、なぜか私と同じ松本という姓のお家ばかりで、ひょっとして松本という姓が八軒あったのかも知れない?

そして街道は、今度は、国道24号線のバイパスの高架下を抜ける。田井ノ瀬橋袂から再び紀ノ川南岸の国道24号線と合流する。
合流してからは堤防の上をしばらく歩き、かなり大きな団地の手前の信号を斜め右に折れる。
そこからは、食品工場やコンクリート工場などが雑然と立ち並ぶ狭い道を抜ける。
所々に日本建築の家屋が建ち並び旧道の面影を楽しめる。
イボ取りと安産に霊験がある、馬次の地蔵堂常夜灯と共に立っている。
大和街道 和歌山
(八軒屋にある社)
大和街道 和歌山
(いかにも古い消防ポンプがあった)
大和街道 和歌山

この紀ノ川南岸土手の国道24号線は、四季折々に景色が変わり、楽しいところである。

この道筋布施屋駅の近くに「ライオンズマンション」があるが、そこで大坂からの熊野街道とクロスする。
両街道はライオンズマンションの前で合流し、小さな神社の角をJR和歌山線布施屋駅の方向に行くと吐前王子を経て、川端王子へとつながる。逆に紀ノ川方面にバックし、川辺橋をわたると中村王子に行く。
このあたりは交通の要所で紀ノ川を渡るために、南岸には布施屋の渡しと吐前の渡し、そして対岸は川辺の渡しとして、たくさんの人を運んだであろう。今は川辺橋がある。
地図を見ても、伊勢から大和街道を経て熊野詣でをする場合、ここから南の熊野に向けていくルートの一つであったろうことがよく分かる。

馬次地蔵堂から少し行くと、田の中に、質素な墓碑が建っている。この先の船戸の渡しで根来寺に行く40人が乗った船が転覆、そのうち15名は無事岸に泳ぎ着いたが、残りは流され帰らぬ人となった。その中には巡礼の人も多く行き倒れとなり、付近の人がそれを哀れみこの墓碑を建てたということである。
さりげなくある、こうした日本人本来の優しさがうれしい。
大和街道 和歌山
(馬次の地蔵堂)
大和街道 和歌山
(イボ取り地蔵さんのお姿)
大和街道 和歌山
大和街道 大和街道 和歌山

この紀ノ川周辺は、あたり一面たんぼの風景が広がり和歌山の穀倉地帯という感じで古道らしい雰囲気となる。巡礼墓から少し行くと、小さな祠がある。八坂神社と鳥居にあった。
小さいが綺麗に手入れされている。

そこからしばらく行くと再び国道24号線に出、岩出橋が見えてくる。
岩出橋をわたらずに右に曲がると、船戸の渡し場跡に行く。岩出橋を渡ると岩出町である。
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<岩出市>

街道は本来は紀ノ川を船で渡ったのだが、今は岩出橋で簡単に対岸に渡れる。その昔渡し船があったJR船戸駅前の道の中ほどに、碑がある。この船戸駅前の道は、旧街道の面影をよく残している。
しかし道が狭く、車は2台がすれ違えずに待つ必要がある。

現代の大和街道は、船戸の渡し跡を右に見ながら岩出橋をわたり、紀ノ川土手を東に歩いてJR岩出駅を目指す。近くには大宮神社がある。
JR岩出駅の南にある小さな踏切をわたり、大和街道の道標がある道をその指示の通りに幾度か右左折を繰り返すと大冠橋につく。

橋のたもとには少し大きな道標があり、さらに東進すると打田町である。典型的な田園地帯であるが、小さな団地があちこちにあり、田の面積などもかなり狭まっている感じを受ける。
県道中三谷下井坂線をわたりすぐに簡易郵便局をかねた民家がある。私のふるさと紀南地方ではそう珍しいことではないが、この地方ではこうした郵便局は少ない。

(船戸の渡し跡。大宮神社常夜灯とある)
大和街道 西田中神社
(渡し場跡から岩出方面を見る)
大和街道 西田中神社
(踏切の名は大和街道踏切)
大和街道 西田中神社
(趣のある建物)
大和街道 西田中神社
(橋のたもとの道標:これが橋本まで案内してくれる)
大和街道 西田中神社
(左紀三井寺、右粉河寺。わかりやすい)
大和街道 西田中神社 大和街道 西田中神社
(西田中神社に向かう)

街道は田園地帯をさらに東へと延びている。
近くには紀伊国分寺跡がある。田園地帯を抜けると県道和歌山打田線(旧国道24号線)と交わる。北側に西田中神社がある。
境内もきれいで落ち着いたいい神社である。
トイレもあり皆で休憩した。コーヒーブレイクなどにちょうどいいところである。
この辺は交通量が多いため、道路の横断には十分気を付ける必要がある。

西田中神社は、室町時代末期に造営され、県指定の文化財に指定されている。こうしたさりげない神社に長い歴史があるということは、県民としてもうれしいし、誇りに思う。

街道はそこからしばらく交通量の多い県道を行く。
いつのルートもそうであるが、国道や県道筋は交通量も多く、景色も雑然としているため、面白くない。
新聞販売店があり、その交差点の隅に道標があり、街道はそこから再び田園地帯になる。
田園地帯にはいるとやはり趣が違ってくる。
農家の軒先の方が個性的でバラエティに富み、景色に艶が出てくる。
こうした景色をうまく残していけないかといつも思う。

大和街道 西田中神社
(近郷7村が集まって祭礼をする)
大和街道 西田中神社
(うちのつんつんに少し似ている)
大和街道 西田中神社 大和街道 西田中神社 大和街道 西田中神社

西田中神社は、もともと宮城県社鹿郡琴の羊ケ崎神社から勧請された元羊ノ宮神社として親しまれてきたが、戦後、打田町尾崎に鎮座してい た八幡宮を合祀して西田中神社となった。 羊ノ宮本殿は、室町末期に建立され、隅木入春日造、檜皮茸で向拝木鼻の鯱は裏側に波を刻んで水中に飛び出した型の県下でも数少ない彫刻 が施されており、県指定の文化財に指定されて いる。
もう一方の八幡神社本殿は、寛永年間に造営さ れた二間社、流造、檜皮茸の構造であり、擬宝珠に年号が記録されてるので、この社殿の建築時代を知る上で貴重な存在となっている。
毎年10月には秋祭りが行われ、稚児行列、こ ども御輿、もち投げなどが行われている。(打田町資料を参考)
大和街道 西田中神社
(極彩色のレリーフが美しい)
大和街道 西田中神社
(鯱は裏側に波を刻んで水中に飛び出した型)
大和街道 西田中神社

東田中神社の獅子舞を見てから、「東がやっているのだから西もやっているだろう」ということで、西田中神社に向かった。やっぱりやっていた。一通りの行事は終わり、社務所で数人が食事をしていた。
「いい鎮守様ですね。楠が守ってくれますね」というと、

「そうやね。やっぱりこうしたところは守っていかなあかん」

そのとおりである。
災害の時など避難場所として最適である。ぐるりの大きな楠がここに逃げ込んだ人を守ってくれる。
本殿や境内を撮影していると、お茶を2本持ってきてくれた。ありがたく頂いた。
こうした素朴な雰囲気が好きである。
餅は結構拾えた。餅に数字が書いてあって、1等賞の洗剤があたった。

<根来寺>

天正13年(1585)3月、豊臣秀吉は10万の軍兵で紀州を攻め、宗教王国を誇った”一向一揆”の勢力や根来寺、熊野の武士たちを滅ぼした。
和歌山市の太田城は水攻めにされ、根来寺は火攻めにされ、伽藍を残して、坊院は焼きつくされた。
昭和51年、広域農道の建設工事が、根来寺の山内で着手されることになり、発掘調査をしたが、この結果、450を超える中世の坊院跡が確認され、出土品では生活用品や茶器、文具など、根来塗も坊院名の記されたも のが発見された。

私も発掘現場を見に行ったことがあるが、1mくらい掘り下げた400年前の地層は炭で黒くなっていた。
想像を絶するすごい火攻めだったのがよく分かった。
中世の遺跡としては、武家屋敷跡の朝倉遺跡(福井県)、民家跡の草戸千軒遺跡(広島県)とともに、”日本三大遺跡”である根来寺遺跡が、少しずつ解明されてきた。最盛期の根来寺の境内はすごかっただろう。
僧兵が闊歩し、線香の匂いがたちこめていたのではなかろうか。
また、根来の技術者たちは、根来塗で世に知られているが、寺院の建築にかかわった人たちについては、あまり知られていない。

しかし、天正の兵火の後、木食応其(もくじきおうご)の歓進(かんじん)によって再建された桃山町の三船神社本殿は、根来坂本の大工が建てたもので、このほかにも、和歌浦の天満(てんま)神社本殿なども根来の大工が建築している。こうした大工たちは、紀州で活躍したばかりではなく、京都や仙台でも、その実力を発揮したそうである。
ルイス・フロイスはその著「日本史」に、根来の寺院を「絢爛豪華な点において、抜群にすぐれている」と書いているが、この陰には、こうした大工たちの卓越した技があったのである。

寺の入り口には、根来一山の総門で嘉永3年(1850)に再建された大門がある。
左右に仁王像を配し、この寺にふさわしい精緻に造営された大門であるが、周囲の無粋な電柱がその景色をスポイルしている。門内には他にも釈迦如来・善財童子・月蓋長者・十六羅漢が安置されているという。
平成5年、県の文化財に指定されている。

根来寺は本来の大和街道から少しずれているが、旅人はきっとここに寄ったと思う。

大和街道 根来寺
(大門:境内側から)
大和街道 根来寺
(境内から向かいの山を)
大和街道 根来寺
(本坊:各皇族が泊まったという)
大和街道 根来寺
(秀吉の鉄砲のあと)
大和街道 根来寺
(鳥羽上皇がここに来た)
大和街道 根来寺 大和街道 根来寺

街道は田園地帯をさらに東へと延びている。
街道の南には、紀州富士として親しまれている竜門山がある。
この日は真冬ながら暖かく、少しかすんで春が近いことを告げていた。

ルートは明神橋をわたり、「昆虫の森」と看板が掛かった訳の分からない庭を右に見ながらさらに東へと延びている。周りは田園地帯で、地蔵さんや疎水が綺麗に流れゆったりとした時間を感じることができる。
水路は藤崎井用水路で水は綺麗である。農家軒先の梅もすでに花が開いていた。

打田町は、パラグライダーやカヌーのスクールがあり、スポーツが盛んである。気流のいい日には、この竜門山をバックに色とりどりのパラグライダーが宙を舞う。
紀ノ川の竹房橋が着地点となっており、そこではJRがカヌースクールをしている。パラグライダーは一度やってみたいと思うが機会が作れない。自由に大空を舞うのは気持ちいいと思う。カヌーをする場合には、流れも緩やかで、危険も少なく、技術に応じて思い思いに楽しめる。
また竹房橋の下は、雨でも橋桁でしのげるため、家族でのバイキングやキャンプに最適で、シーズンになるとたくさんの家族連れで賑わう。

大和街道 根来寺
(昆虫の森?意味不明
大和街道 根来寺
(足にご利益があるのだろうか)
大和街道 根来寺
(かわいいお地蔵さん)
大和街道 根来寺
(地蔵堂)

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