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<五条>

万葉人が紀伊の国への往還の際、故郷への哀愁と異国への思いを馳せた真土山。
そのふもとの落合川にある石をひとまたぎすると和歌山から奈良へとなる。
県境を石の割れ目が分けている。

周辺は万葉歌碑やいろんな施設がある。東屋もあるので、コース設定はこの辺を昼食休憩にするといいと思う。

 

(飛び越え石) 

今回の街道は、時間がほしかったので、自転車で行った。
橋本市大橋たもとの河原に車をおき、そこから折り畳み自転車で五条まで走った。
自転車で行くと、徒歩で行くのとはまた違ったおもしろさがある。
時間に余裕ができるため、行動範囲が広くなり、ちょっと足を伸ばせることである。
悪いのは上り坂が延々と続くときには、徒歩よりもきつい道行きとなることである。

さて、橋本市から五条には、国道24号線の坂を越えればいいのだが、私は落合川に沿った道を行った。
行く途中、沢の中の大岩に、お不動さんを刻んでいた。
落合不動明王は、その岩の道向かいにある。
大和街道 五条
(沢の大岩に刻まれている)
大和街道 五条
(不動明王) 
大和街道 五条
(川そばにある地蔵さん)
大和街道 五条
(落合不動明王祠)

落合川に沿う道を行くと三叉路があり、発車時間を待つバスが止まっていたので、運転手に、
「五条に行く道はどっちですか」と聞くと、
「この自転車で行くのか」との返事。
「はいそうです。大和街道を走りたいのですが」
「うーーん。ようわからんけど、こっちちゃうか」と、気の毒そうに自転車を見てから、左の道を指さしてくれた。
しかし、これがそもそもの間違いだった。
大きく山側を迂回した形で五条まで走る羽目に陥ったのである。

私は、バイパスを大きく迂回して、国道310号線に入った。そこからは下りとなったので、楽々であった。
この五条市側も高速道路の建設が急ピッチで進められている。その310号線の終わり近くの測道に、御霊神社がある。
小さな祠があり、境内に石碑があった。
五条を走って思ったのだが、五条の大和街道や史跡に関する資料が極端に少ない。
ホームページで検索しても、なかなか要領を得ない。
和歌山の熊野古道などはいろいろな人がページにしているので、すぐに資料が集まるが、五条は少ない。
大和街道も、伊勢街道としては、かなり詳細な情報を得られるが、五條市内の、和歌山から五条への道筋を書いたものはまずない。今回もそれで迷った。
これで高速道路ができ道筋が違ってくるとますます忘れられてしまうのではないかと思う。

熊野古道のページでも書いたが、こうした街道筋をきちんと残して、全国の街道が統一したコンセプトで結びつけることができたらすばらしいと思う。
すでに消滅したところは、道筋を新たに指定して、接続させたらいいのである。
その道筋が、今続々建設されている道の駅とジョイントしたらすばらしい。
日本が世界の文化国となるためには、そんな身近なところから、国が一つになって取り組んでいってほしい

大和街道 五条
 (道で見かけた猫。)
大和街道 五条
   (道筋の地蔵さん)
大和街道 五条
  (建設中の京奈和道路)
大和街道 五条
(境内にある碑)
大和街道 五条
大和街道 五条
(御霊神社本殿)
大和街道 五条
(よく分からない案内碑。御霊と御玉?)

国道310号をさらに走ると国道24号線と交差する。五条市 新町通
交差したところから左に少し行くと、天誅組本陣がある。
天誅組が本陣として挙兵したところだという。
1863年(文久3年)8月17日天誅組志士30人は一斉に挙兵し、五條代官所を襲い代官鈴木源内の首をはね、桜井寺に本陣を置き、五條新政府と号し、倒幕ののろしをあげた。
その後、十津川郷士960人の応援をえて高取城を攻めましたが失敗し、吉野郡各地で転戦したが、十津川郷士の離反もあり、1万人を超える幕府の追っ手に翌9月、東吉野村鷲家口で壊滅したという。
時期的に早すぎたともパンフレットには書いている。
幕末の下級武士と豪農豪商が一体となった最初の武装反乱で、倒幕・明治維新の先駆けとなったところに意義があるとも記されている。
たしかに、薩摩・長州の倒幕派による明治維新が実現したのは、このわずか5年後1867年のことであり、この天誅組の挙兵は、失敗はしたが武士などの意識の底に刻まれ、明治維新になだれ込んだのではなかろうか。
そういう意味では、パンフレットにある「五條が明治維新発祥の地」と言うのはあたっている。
和歌山の龍神村にも天誅倉などがあり、天誅組に関するいろんな話が残っている。  
五条市 新町通
桜井寺をあとにして、168号線にはいると、漆喰の壁に綺麗な瓦屋根の町並みが目につく。
その道の右側に、ひときわ目に付くのが、栗山家住宅である。
旧伊勢街道の名残で、今でも江戸時代の商家の街並みを残す新町筋の中でも、特にこの栗山邸は、建築年代のわかっているものでは日本最古の民家ということである。入り口には見学不可と書いた札があった。桜井寺がコンクリート作りで少し寂しい感じであったが、この建物を見て気持ちがおさまった。五條市は、吉野川中流域の北岸 大和盆地の南西端にあり、四方から街道が交わり、吉野川、紀ノ川の水運によって開けた交通の要衝であることが伺える。そのため五條の町はすでに15世紀の初めに市場が開かれており、物資の集散地、在郷町、宿場町として栄え、長い歴史がわかる。
この国道168号線は、和歌山県新宮市への道で、現在でも重要な道路である。
五条市 新町通
(桜井寺)
五条市 新町通
(桜井寺本堂。コンクリ作りだ)
五条市 新町通
(西川橋たもとのお地蔵さん)
五条市 新町通
(栗山家住宅の隣にある寺)

栗山家から少し歩き右の路地を入ると新町通になる。
そこからの町並みは江戸時代の景観を残していて楽しい。
窓ガラス、サッシュなどが無く全部格子で本瓦葺、中二階建てで塗り込め壁の虫籠窓で、これで電柱がなければ、江戸時代にタイムスリップしたような景観である。通りには、
私と同じようにカメラを持って撮影しながら歩く女子大生風の女性が二人もいた。
大和街道沿いには、江戸時代の建物が77棟、明治時代の建物が19棟確認されているという。
五條の町並みの特徴は、木造の本瓦葺きで、軒裏や二階壁面を厚く漆喰で塗り込め、虫籠窓をつけ、一階は格子、蔀戸を用いている。それが建物に何とも言えない重厚な感じを与えている。
この道筋はカラー舗装がされていたが、これをするとき、なぜ無電柱化をしなかったかと惜しまれる。
この町並みの良さを、電柱がスポイルしている。
もしこれで電柱がなかったら日本でも指折りの町並みであることに間違いがない。
観光資源としても大いに活用できる。次には是非無電柱の町並みにしてほしい。

町をしばらく行くと橋のたもとに、餅屋さんがあった。
中を見ると黄粉の中に餅が二つ無造作に置いていた。
何となくうまそうに見えたので店の奥に声をかけると、「はいはい」といいながらおばあさんが出てきた。
「これください」というと、決して綺麗ではない手(餅をこねていたのであんこなどが着いていた)でクルクルとヨモギ餅を丸めながら、
「はいはい、おおきに。今出来たとこや。ありがたいのう作ったら作っただけこうてくれる」手で丸めながら、私に言うのか独り言か分からない感じで応えてくれた。
よもぎ餅は、町並みと同じで懐かしい味がして美味しかった。今度通りかかったらまた買おう。
ただ首にかけていたカメラが黄粉だらけになってしまい粉を取り除くのに苦労した。
五条市 新町通
(通に入ってすぐの景観)
五条市 新町通
(造り酒屋の店先)
五条市 新町通
(新町通の建物の特徴的なもの
五条市 新町通
(一の橋餅屋さん)

新町の気持ちいい町並みを楽しみながら歩いていくと川と交差する。
その川を見て暗い気持ちになった。かなりどぶ川に近い。
ゴミがたくさんかかっているしコンクリの護岸ばかりである。水も汚い。
この水は紀ノ川に流れていくのである。こうした汚れた水が集まって全国でも「屈指」の汚い川になってしまっているのである。
今ゼネコンなど業績が悪いと聞くが、こうした川の見直しを国挙げて行えば仕事もできるし国民も喜ぶと思うがどうだろうか。

この砂防堤を取っ払い、魚が上がれる川筋にし、川底を元の砂に戻すと見違えるようになるはずである。
護岸は砂が堆積するような仕組みにすれば、草木が生えてカニや小動物の産卵場所になる。
かなりお金もかかるがそれは仕方のないことで、自分たちのもうけのためにしでかした貸し倒れ金を、税金から負担することを思えば安いものである。
何よりも文化が育つ。
五条市 新町通
(町並みにそぐわない川の流れ)
五条市 新町通
(新町の住宅の特徴ある窓)
五条市 新町通
(町の中にある神社)
五条市 新町通
(電柱がなければさらにいい)

<幻の五新鉄道>
五新鉄道は、五条から新宮への動脈として計画されており、私が子供の頃はこの路線が延びたら大阪が近いね、と楽しみにしていた。しかし、右の五條市史にもあるように、全面中止となった。
今は少しの区間をバスが走っているだけである。綺麗な新町も、この施設のおかげで台無しである。作るなら作る、つぶすなら完全に撤廃してほしい。
映画「萌の朱雀」はこの五新線が舞台となったことでも有名であるが、映画の中でも鉄道の敷設を熱望していた。
この鉄道が開通していたら、新宮、そして和歌山県の南の町々のありようも、また違ったものになっていたことは確実である。
無駄金を捨てて、残ったのは廃墟だけである。
五条市 新町通
(ちょんぎれた線路)
五条市 新町通
(街道を跨いでいる)
五条市 新町通
(殺伐とした風景)

五新鉄道について

五條市史(昭和62年10月15日発行)から

五新鉄道は、大正8年(1919)当時の宇智・吉野郡会がその建設を国会に陳情を決議したことにはじまり、奥吉野地方にとっては悲願であった。昭和14年、当市で起工式が行なわれ、五條から西吉野村和田まで完成したが、昭和19年には戦争激化により全面中止のやむなきに至った。

昭和25年(1950)には、吉野・熊野特定地域総合開発計画で五新線が再び計画に入り、五條・大塔村阪本間(24km)が建設線となった。昭和32年(1957)には工事が再開され、同34年(1959)には五條・城戸(西吉野村)間(阪本線)の路盤工事が完了した。しかし国鉄側は、同区間をバス路線として運行する意を表し、鉄道路線としての工事を中止した。その後、近鉄の電化路線としての運行案が登場したりして、五新鉄道の運行形態をめぐって議論が百出した。

最終的には、昭和40年(1965)、五條−城戸間をバス路線として運行することとなり、鉄道軌道用の専用路線を使用して運転が開始され、現在は同区間に20往復(1日)が運行されている。

昭和42年(1969)には城戸・阪本間の工事に着手、同46年(1971)には全長5kmあまりの天辻トンネルの完成をみ、城戸側から着々と近代的路線形態をとった路線工事がすすめられた。

昭和54年には城戸・立川渡間が概ね完成し、立川渡から天辻トンネルへ至るループトンネルの完成によって五條・阪本間が開通するかに思われたが、折しも国鉄再建問題がクローズアップされ、さらに地方赤字ローカル線の廃止が打ち出され、ついに昭和57年(1982)には全面的に工事がストップした。

現在、城戸以南の完成見通しは全くなく、その動向が注目されるが、これまでに投下された建設費の有効利用のためにも、一日も早い打開策を考察することが急務といえよう。


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