本名=武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)
明治18年5月12日—昭和51年4月9日
享年90歳
東京都八王子市戸吹町185 中央霊園
小説家・画家。東京府生。東京帝国大学中退。トルストイに傾倒。明治43年志賀直哉らと『白樺』を創刊。同誌に小説・評論を書く。『お目出たき人』『世間知らず』などを刊行。〈白樺派〉の代表的作家。大正7年〈新しき村〉を建設、理想の共同体を目指した。『友情』『幸福者』『トルストイ』『愛と死』『真理先生』などがある。

「神は愛なり」之は真理であります。すべての人の生命を完き姿で愛する、それが出来た時私達は神と一緒になったのであります。一つの生命も我等はまちがったまゝでは愛することは出来ません。他人の生命が完き姿で生きることを拒むものを、私達は愛することが出来ないからです。しかしその人が心がけをなおして、すなおな心になり、すべての人の心が完き姿で生きることを望むようになれば、我等は涙ぐみながらその人を愛するのであります。つまり私達は、すべての人間が完成されることを望み、その方に向って前進することを真埋に要求されているのです。この真理を目指して、私達は自分相応のカで前進することを心がけることが出来れば、その人は真理を愛する人だと言うことが出来るのです。
(真理先生)
学習院時代から親交のあった志賀直哉に有島武郎や木下利玄らと創刊した雑誌『白樺』はいわゆる「白樺派」文学運動の中心として自由・個性を尊重して日本文学の大きな潮流をなした。その中核作家として、「人間万歳」を旗印に先頭を走っていった武者小路実篤の〈自分の一番自信があるのは、人間としての自分である。特殊の人間、専門的人間とせず、ただあたりまえの人間として、つまり幸福な楽天家としての自分に自信がある〉と断言した自信は生涯を終える時まで揺らぐことはなかった。
昭和51年1月末、入院中の妻を見舞った翌朝に脳出血で倒れ、その後の妻の死を知らぬまま4月9日早朝、慈恵医科大学附属病院で尿毒症により与えられた人生を燃焼し終えて逝った。
人道的生活共同体の理想郷〈新しき村〉の創設者武者小路実篤は埼玉県入間郡毛呂山町にある納骨堂〈大愛堂〉に眠っていると認識し、またそうでなければと思っていた。
分骨とはいえ、どういう経緯で八王子のはずれにある公園墓地ともいえるこの中央霊園に移されてきたのかはわからないが、遮るもののない丘陵の中央部、白樺と彩り豊かな花々、緑濃い植栽に囲まれて妻安子と共に眠る「武者小路家」墓碑に素直に頭をさげた。墓誌は画家中川一政が独特の書体で書いている。
——〈此人は小説を書いたが小説といふ言葉では縛れない 画を描いたが画家といふ言葉でもしばれない 思想家哲学者と云っても何か残る そんな言葉で縛られないところを此人はあるいた〉。
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