本名=村岡はな(むらおか・はな)
明治26年6月21日—昭和43年10月25日
享年75歳
神奈川県横浜市西区元久保町3–24 久保山墓地K51区
翻訳家・児童文学者。山梨県生。東洋英和女学校(現・東洋英和女学院)卒。昭和2年から児童文学の翻訳で知られる。特にモンゴメリの『赤毛のアン』シリーズ、エレナ・ポーター、オルコットなど、英米文学の翻訳に貢献した。『王子と乞食』『フランダースの犬』『村岡花子童話集』などがある。

時間の存在を身にしみて知った払にとって、死は観念の世界のものではなくなった。人間の生命は時間の流れとともに推移し、或る瞬間、弦が音を立てて切れるように死の中に繰りこまれてゆく。死は決してまぬがれられぬものであり、生きてゆくということは、一刻一刻死への接近を意味している。誕生したばかりの新生児すら、すでに死への歩みをはじめている。
弟の死は、眼前にせまっている、と解すべきであった。五十年———一万八千余目を生きてきた弟の肉体は、医師の推測によればあと三十日前後で物体と化す。死が確定しているものなら、残された時問が多半短縮されることはあっても、苦痛が幾分でも軽減されれば、その方がよいのではなかろうか。
私の内部では、弟はすでに死者に等しいものになっていた。弟の生命の弦が切断される瞬間は、近々のうちに必ずやってくるし、それに対する心購えもととのえておかねばならない。
路面に眼を落して歩きながら、私は人間として不遜なのかも知れぬ、という罪の意識に似たものが胸の中をよぎるのを感じた。たとえ兄であるからとは言え、弟の肉体は他者のそれであり、延命を義務とする医師にその努力を放擲して欲しいと告げる資格はない。死に対する自分なりの考えを弟に押しつけるのは、僭越ではないだろうか。
(冷たい夏、熱い夏)
昭和14年、第二次世界大戦が始まった。銀座教文館でともに編集に携わっていたカナダ人宣教師ミス・ショーも帰国を余儀なくされ、友情の記念にと贈られたモンゴメリの『アン・オブ・グリン・ゲイブルズ』原書。赤毛で痩せっぽち、顔はそばかすだらけの女の子「アン」を主人公にしたこの本が村岡花子の生涯を変えた。
戦時中も一心に翻訳作業を続け、ようやく出版が叶ったのは終戦7年後のことであった。題名『赤毛のアン』。その間、常に傍らで翻訳の助けになったのは夫儆三から贈られたウェブスター大辞典であった。
儆三が心臓麻痺で死去以後も、翻訳ばかりでなく愛読書としても傷心の花子を慰めてくれていたのだが、昭和43年10月25日夕食中、村岡花子は脳血栓に倒れ伏した。
花立ての片方だけにピンクと黄色の菊花。昭和38年花子が建てた赤御影碑の裏には、村岡平左衛門から始まる一族17名の没年月日、幼くして亡くなった長男道雄や夫儆三、花子と養女みどりの名が彫られている。
花子が『赤毛のアン』の舞台、プリンスエドワード島を訪れる計画は二度ほどあった。いろいろの事情からその機会をついに失ってしまったのだが、広大な敷地に広がる墓石の海、左右がえぐられ、その窪みに突き出た半島のような地形の下り道筋に建つ「村岡家之墓」。
ゆるゆると下っていくこの坂道のずっと先には何がある。赤い屋根の岬の灯台、どこまでもつづく砂浜、はたまた希望に満ちた青い海原……。
いましも西の空に陽は落ちようとして、黄金色の幽かな鼓動がひたひたと押し寄せてくる。
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