本名=村上荘太郎(むらかみ・しょうたろう)
慶応元年5月17日(新暦7月20日)—昭和13年9月17日
享年73歳(青萍院常閑鬼城居士)❖鬼城忌
群馬県高崎市若松町49 龍広寺(曹洞宗)
俳人。江戸(東京都)生。初め司法官を目指したが、耳疾のため代書人となる。『ホトトギス』の初期から俳句。写生文を寄せ、のち虚子派の代表的俳人として重きをなし、人生への諦念と難聴の苦しみ、不遇の生活を写生した句を表現した。『鬼城句集』『鬼城俳句俳論集』などがある。

痩馬のあはれ機嫌や秋高し
夏草に這ひ上りたる捨蚕かな
冬蜂の死にどころなく歩きけり
麦飯に何も申さじ夏の月
いささかの金ほしがりぬ年の暮
生きかはり死にかはりして打つ田かな
花散るや耳ふつて馬のおとなしき
小鳥この頃音もさせずに来て居りぬ
新米を食うて養ふ和魂かな
雹晴れて豁然とある山河かな
鳥取藩三百五十石の武家の子として江戸屋敷で生まれ、明治六年、父が訴訟人のための公事宿を営むに伴って群馬県高崎に移住したが、18歳の時に耳疾を患い殆ど耳が聞こえなくなった。代書人を生業としながら句作に励んでいた大正2年の春、高崎に招かれた高浜虚子の句会に出席、賞賛されたことによって、聾者としての劣等感が薄らぎ心安らかになった。それ以後、境涯の陰翳を写生した句を次々に発表し『ホトトギス』の主力として活躍していったが、前年の終わりから不調をきたして磯部温泉に通っていた昭和13年2月頃、医師から家人には胃がんであることを告げられた。7月には臥床。9月17日快晴の朝「こんな気持ちの良いことはない」と葡萄を数粒口にしたが容体急変、医師が脈をとった午後5時30分頃、既にこときれていた。
虚子は〈鳥取藩の何百石といふ知行取りの身分でありながら、耳が遠いといふことの為に適当な職業も見つからず、僅かに一枝の筆を力に陋巷に貧居し〉と鬼城の境涯を述べている。〈音の奥に潜んでいる音を聴いてくるのが詩人〉だと門人たちに贈った言葉どおり、鬼城には難聴貧窮の境涯を投影した秀句が非常に多いが、高崎城址の東、烏川のほとりにあるこの寺の本堂奥の少し高段に、鬼城の翌々年に死去した妻ハツと長男の信夫妻が埋骨された村上家代々之墓に並んで「境涯の俳人」と呼ばれた鬼城の戒名「青萍院常閑鬼城居士」が刻まれた笠付方形墓、かつては鳥取藩士であったという矜持であろうか古武士の佇まいを彷彿とさせるような趣で建っていた。
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