椋 鳩十 むく・はとじゅう(1905—1987)


 

本名=久保田彦穂(くぼた・ひこほ)
明治38年1月22日—昭和62年12月27日 
享年82歳(鳳宣院釈智導) 
長野県下伊那郡喬木村阿島 生家墓地 
鹿児島県姶良市加治木町朝日町187 性應寺(浄土真宗)




児童文学者。長野県生。法政大学卒。大学卒業後、鹿児島で女学校教師を勤める。山窩小説から出発したが、昭和13年から『少年俱楽部』に動物小説を発表。自然や野生動物をテーマとする作品を多く書いた。代表作に『片耳の大鹿』『孤島の野犬』などがある。








  

 おすワシは、谷のむこうがわの、大きな岩の上にしゃがんでいた。かたいっぽうのつばさを、ひどくやられていたのだ。
 そのかたわらに、めすワシは、おすワシをまもってでもいるように、ぐっとむねをはって、しゃがみこんでいた。
 谷間を、鳴きながら、かけまわっている源次の犬の鳴き声が、その岩のあたりにも、きれぎれに聞こえてきた。
 その声を聞くと、やっぱりまた、野に住むもののもたない感情が、むくむくと頭をもたげてきて、おすワシの心は、犬のほうにひきつけられるのだ。そして、岩の上に立ちあがると、かたいっぽうのつばさをばたつかせて、谷間の犬のほうを、じっと見つめるのであった。
 すると、めすワシは、いらいらしたようすで、おすワシの頭を大きなくちばしでコツンコツンと、つつくのであった。
 「わすれてしまうのだ。人間のにおいのしみこんでいるものを、みんなわすれてしまうのだ。でなかったら、大空の自由は、じぶんのものにならないよ。」
と、それは、おすワシにむかつて、いいふくめているようでもあった。
 おすワシは、うたれたつばさのいたみをわすれようとするのか、あるいはまた、里へひきつけられる心を、わすれてしまおうとつとめているのか、苦しげに、グウ、グウと、ひくいうなり声をたてつづけるのであった。

(大空に生きる)



 

 中央アルプスと南アルプスに囲まれた谷間を悠々と流れる天竜川、故郷信州伊那谷の大自然にたたずむ山里の風土と、絶え間なく噴煙を上げつづける桜島の雄姿を間近に眺めながら女学校教師や県立図書館長として、あるいは児童文学者として暮らした南国鹿児島のおおらかな風土が互いに交差し、密接に連鎖しあって、名もなき小さな動物たちの物語を数多く育んできたのだったが、昭和62年11月、腎臓炎のため講演先の名古屋で倒れ、鹿児島市の南風病院で入院治療を受けていた12月下旬に肺炎を併発して27日午後8時47分、ついに帰らぬ人となった椋鳩十の耳元に聞こえていたのは伊那谷の生家裏山に絶え間なく鳴いていた松風の音だった。〈松風になりたい。松風よ。吹け〉



 

 飯田中学校に通学するために利用した天竜川の渡し場があった場所に架かっている阿島橋という赤い鉄橋を渡ると街道が南北に通じており、宿場町の残り香をわずかにとどめた町の中央を流れ、天竜川に注いでいる加々須川沿いを東に入った山ぎわに、かつては「久保田のウシチチ屋」と呼ばれ小さいながらも乳牛牧場を経営していた椋鳩十の生家があった。今は取り壊されて竹林と梅林になり、赤錆た手押しの井戸ポンプが唯一の記念碑として寒空に残されている。畑のすぐ上にある晩秋の陽が落ち始めた生家墓地、鹿児島県在住彫刻家・中村晋也氏制作、椋鳩十の胸像の西方には中央アルプスの峰々、花の百名山に選定された風越山が見える。鳩十が「ハイジの夕焼け」と名付けた光景もあと少し待てばきっと眺められるに違いない。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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