村井弦斎 むらい・げんさい(1864—1927)


 

本名=村井 寛(むらい・ひろし)
文久3年12月18日(新暦1月26日)—昭和2年7月30日 
享年63歳 
神奈川県平塚市豊田打間木419 慈眼寺(法華宗)



小説家・ジャーナリスト。三河国(愛知県)生。東京外国語学校(現・東京外国語大学)中退。東京外語学校中退後、渡米して苦学。帰国後、矢野龍渓、森田思軒の知遇を得て『報知新聞』客員となり、小説『子猫』『日の出島』、啓蒙小説『百道楽シリーズ』で、『酒道楽』『釣道楽』『女道楽』『食道楽』などを書いた。







  

 若紳士は中川を説破せんとて一生懸命なり「中川君、人の心の愉快と不愉快とはその境遇にあるさ。不愉快の境遇にある人へ心を愉快に持てといっても無理でないか」中川「イヤ、そうでない。人の心の愉快と不愉快とはその境遇よりもむしろその覚悟にある。勿論境遇に幸不幸の区別がないとはいわんが大概な人はその覚悟によって心を愉快に持ってると思う。先ず手近い話しが人は誰でも自分の職業を神聖として楽しまねばならん。職業に高下貴賎の別はない。労動力役といえども神聖なる職業だ。天下の人が皆な各々自分の職業を楽しんで熱心に勉強したらば毎日その心も愉快で充たされるだろう。しかるに今の世の人は自分の業務をさえ愉快に実行しない者もある。それが第一に人の心の愉快と不愉快の別れる処だ。僕が自分の事を例に出すのもおこがましいが僕なぞは文筆を以て社会を感化するのが何よりの楽みだね。実に人生無上の愉快だね。自分の業務を愉快に楽しんでいるから口広い事を言うようだけれども一年三百六十日一日として我が業務を怠った事がない。鴉の鳴かぬ日はあっても僕が業務を休んだ日は一度もない。それも一年や二年の事でない。君らを始め世間の人が皆知っている通り僕が文筆に従事してより永年の問に自分の怠りで業務を休んだ事ほいまだかって一日もない。休むどころか愉快に駆られて毎日業務以外の仕事までをする。勿論これは人の道として当然の事だ。
                                         
(食道楽)



 

 当時、徳冨蘆花の『不如帰』と並んで絶大な人気を誇った啓蒙小説、ヒロインお登和と食べることが何より好きという大原満の恋愛を中心に料理や家事についての話が展開する『食道楽』。
 印税で手に入れた平塚の広大な敷地に造った庭園、菜園、果樹園、温室、鶏舎、羊舎などで和洋の食材を自給し、食の研究のために自らを実験台として断食、生食、木食を試みたり、西多摩御嶽山中で竪穴住居生活を実践したりして奇人視され、文壇からは隔絶された弦斎であった。
 昭和2年、がんを疑うようになってからは医者の来診、近親者、友人らの面会も謝絶。7月27日になると衰弱が著しくなって容態が急変、心臓も弱まり動脈瘤と診断されて7月30日午前6時40分、死去した。



 

 明治37年から昭和2年に死去するまで弦斎が住んだこの町のはずれ、刈り取られた稲かぶにわずかばかりの新芽がのぞいた田園がひろがり、銀色の電線塔が、濃く薄く連なっている丹沢の山並みに向かって林立している。富士は見えない。遠くの方で高速列車がキュイーンと、一条の銀糸をひいて朝靄の風景を西から東へ切り裂いていく。
 参道につづく砂利道の赤い帽子をかぶった石地蔵はお堂の日影に和み並んで、墓地は仄明るい。神奈川県鶴見区・総持寺にあった「村井家墓」は平成16年1月、この寺に移された。新しく設えられた基壇に古いままの棹石が置かれている。
 傍らにある平塚市の説明板を読んでいると子犬を連れた老女が「おはようございます」と会釈して、やわらかな朝の道を通り過ぎていった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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