村山知義 むらやま・ともよし(1901—1977)


 

本名=村山知義(むらやま・ともよし)
明治34年1月18日—昭和52年3月22日 
享年76歳 
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種5号25側 



劇作家・演出家。東京府生。東京帝国大学中退。大正11年ドイツへ留学、表現主義などの影響を受け、翌年帰国して前衛美術団体『マヴォ』を結成。13年築地小劇場『朝から夜中まで』の舞台装置を担当。昭和34年『東京芸術座』を結成。戯曲『国定忠治』、小説『白夜』『忍びの者』などがある。







  

 僕は今朝から顔について考えている。
 というのは、顔は全く一つの独立した生物だということだ。しかも恐るぺきそれだということだ。僕は今朝、久し振りでまた本庁のAにしらペられている最中、フト自分の顔の筋肉が痙攣していることに気が附いた。筋肉の痙攣している僕の顔を考えて見るがいい。しかもそれを例の上限で、眼鏡の奥からジロリジロリ見ているのは本庁のAなのだ。僕はその眼鏡の中の上眼に駘蕩たる優越感が游いでいるのを見たー—
 僕は自分の顔の事など随分長い間考えた事はなかった。三年程前に、中学の四五年の頃は、顎が少し角張り過ぎていることや、眉の迫り過ぎてていることやが、町の女学生を対象にして、気になって、小さな鏡を机の引出しにかくして置いたこともあったのだが——だが、大体、僕の顔は僕を満足させていた。それは、五尺七寸八分の長身の僕の身体の最上部で、深い線で刻まれて、勇ましく、男らしく、前方を見詰めていた。僕は「自分の顔の事など随分長い間考えた事はなかった」と云った。だが、女と云えば、「あいつはレポには使える、」「あいつを今度からはピケに使ってやろう」位にしか考えていなかったこの二年間も、失っ張り、意識の下に、自分の顔についての考えはあったに相違ない。しかし、その考えは「女」とは独立にだ。先に左翼劇場の「全線」という芝居を見た時、殺される闘士になった何とかいう役者の顔を見た時、思わず満足したことを覚えている。その颯爽たる「闘士型」の顔が、僕の顔に似ていたからだ。何時の間にか、しやべる時に唇の左の端をキュッキュッと釣り上げるその役者の癖が、上の人から指令を貰って来て、常に伝える時などの僕の唇の端に移っていた。
 その顔が、今朝から、全く統制の取れぬ、憎むべき、独立した生物となってしまった。妙ないらだたしさを覚える。髭がひどくザラザラに伸びて来た。

(血と学生)



 

 前衛芸術家、劇作家、舞台装置家、小説家、建築家、童画作家、どこを切り取ってもその切り口からは先鋭的な瑞々しい輝きがほとばしり出てくるのであったが、行く手にはいつの時も厳しい闘争があった。
 自己肯定と自己否定の狭間でうごめく人間のすさまじい本性を私は思う。知識人村山知義は体制と衝突しながらも多面的な活躍で日本の近代芸術に決定的影響を与えた。
 昭和45年、69歳の時に発見された直腸がんは手術によって摘出した。73歳の時に腸閉塞を起こした横行結腸がんは手術によって事なきを得たもののついには命取りの病根となって、昭和52年3月22日午前6時17分、渋谷区千駄ヶ谷の代々木病院にて、76年の戦い多き生涯を閉じた。



 

 冬陽の輝きは思いのほか短くて、落ち葉の吹きだまりに弱々しい斜光が引き潮のように薄らいでいく。墓石には「演劇運動万歳 最後の言葉 村山知義 tom」の文字。香置きの水は凍りつき、倒れたカーネーションの花が水中花のように閉じこめられている。碑裏に村山知義の没年とともに、昭和21年8月に亡くなった妻籌子の名前が記されてある。
 沈静な墓域に、最後の言葉と付された「演劇運動万歳」プロレタリア演劇運動の中核として関わり、『東京芸術座』を結成、主宰した村山の千秋楽を飾る見事な演出ではないか。
 「tom」は童画作家としてのサインであり、晩年の絵本作家としての一面をもあらわしている。村山知義の前衛的な生涯を具現化した墓碑として少なからずの興味を覚えたのだった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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