本名=真壁仁兵衛(まかべ・じんべえ)
明治40年3月15日—昭和59年1月11日
享年76歳
山形県山形市緑町3丁目1―26 願重寺(浄土真宗)
詩人。山形県生。山形市立高等小学校卒。尾崎喜八、高村光太郎らに学ぶ。郷里山形で農業の傍ら詩作。昭和7年『街の百姓』、33年『日本の湿った風土について』などを刊行。山形農民文学懇話会「地下水」を主宰。ほかに『黒川能』『みちのく山河行』『野の文化論』などがある。

おれたちが庭の隅つこに堆肥の山築きあげると
それは悪意ある隣人の抗議にふれる
おれたちがギシギシ天秤きしませダラ桶かついで行くとき
さかしげに鼻をつまむ女がいる
街の百姓
けれどもおれたちはやめない
一塊の土があればたがやし
成長する種を播くことを
おれたちはやめない
豚を飼ひ 堆肥を積み 人間の糞尿を汲むのを
高い金肥が買へないからだ
土のふところに播いて育てる天の理法しか知らないからだ
(街の百姓 一)
25歳の誕生日に出版された処女詩集『街の百姓』は、詩友・更科源蔵が鉄筆を握ってロウ原紙を切り、真壁のために編集・刊行したガリ版印刷による五十頁ほどの冊子であったが、松永伍一は「同時代のあまたの農民詩人の仕事の中でもっとも傑出した出来ばえの詩集…」と激賞したのだった。その自序に〈私は生れながらの土百姓だ。百姓である自分にとつて、詩はひそかな心のおごりであった。(中略)私は決して詩人の前に、自分の詩想の貧しさ、試技の拙さを恥はしない。けれどもはたらく野良の仲間の前に立つとき、自分の饒舌に過ぎないところの歌に対して言ひやうの無い卑みを覚えるのだ。〉と書いているが、昭和59年1月11日午後9時50分、山形県立病院で肝臓腫瘍のため土着の農民詩人として永眠する。
真壁家の菩提寺・願重寺のある一帯は、かつて「専称寺町」と呼ばれ、初代山形藩主最上義光が山形城の東の要塞として、浄土真宗の寺院を集めて配置した地域らしく厳粛な寺町の様相を呈している。T字路の突き当りに市内随一の大伽藍・専称寺がある手前左の山門をくぐった先の本堂周りにある墓地はさほど大きなものではなく、簡単に探せると思ったのが運の尽き、どの墓も家の名がなく、正面は「墓」とのみ記されたシンプルなものばかり、探しあぐねて住職に助けを乞う。この地域独特の仕様であるのだろう、なるほど「墓」の下の中台に「真壁家」とあった。真壁仁の筆とのこと、昭和35年2月に父幸太郎が建てたこの墓に「野の詩人」真壁仁は眠っている。
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