正岡子規 まさおか・しき(1867—1902)


 

本名=正岡常規(まさおか・つねのり)
慶応3年9月17日(新暦10月14日)—明治35年9月19日 
享年34歳(子規居士)❖糸瓜忌・獺祭忌 
東京都北区田端4丁目18–4 大龍寺(真言宗)



俳人。伊予国(愛媛県)生。東京帝国大学中退。明治25年根岸に住み、俳句研究に没頭。日本の近代文学に多大な影響を及ぼした文学者の一人。俳誌『ホトトギス』は近代俳句に、『歌よみに与ふる書』は、歌壇に衝撃を与えた。34年以後はほとんど病床にあった。『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』などがある。






  

 病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死後の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其れさえ読めないで苦しんで居る事も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさわる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。
                                                     
 (病牀六尺)



 

 〈悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない〉。
 強い意志を持って俳句、短歌、写生文、水彩画、茶の湯など次々と新しい対象を見つけ、その研究に没頭することによって生きる方を掴んできた子規であったが、結核に取り憑かれたまま、病牀六尺を7年もの長い間ほとんど出ることなく過ごしてきた。生涯の最後の頃には、脊髄炎の膿の排出口が六、七個にもなり身体中に激痛が押し寄せていた。
 明治35年の夏には一時快復したかに見えた病状だったが、9月19日午前1時、長い病魔との悪戦苦闘の生涯を終えた。辞世三句〈糸瓜咲て痰のつまりし仏かな〉、〈痰一斗糸瓜の水も間に合はず〉、〈をとゝひのへちまの水も取らざりき〉。



 

 田端・大龍寺裏手にある墓地の奥隅に、煉瓦塀と勢いよく茂った笹竹を背に没後3年の明治38年、陸羯南筆になる「子規居士之墓」は少し右に傾いで建っていた。右に母「正岡八重墓」左に「正岡氏累世之墓」が並び、左手前の石柱には、病没4年前に友人河東銓に託した墓誌銘が、板岩に刻まれてはめ込まれている。ただし、はじめは昭和9年の33回忌に銅板で製作された自筆の碑銘だったのだが、のち盗難にあい、改めて石に刻み直したものである。
 ——「正岡常規又ノ名ハ處之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日歿ス享年三十□月給四十円」。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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