本名=松本 孝(まつもと・たかし)
明治39年1月5日—昭和31年5月11日
享年50歳(青光院釈一管居士)❖たかし忌
神奈川県三浦市三崎1丁目19–1 本瑞寺(曹洞宗)
俳人。東京府生。錦華小学校卒。宝生流能役者の家に生まれるが、14歳で肺尖カタルになり、病弱のため能役者を断念する。高浜虚子に師事、昭和4年『ホトトギス』同人。21年『笛』を創刊・主宰。『石塊』で読売文学賞を受賞。句集『松本たかし句集』『たかし全集』などがある。

芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり
チポチポと鼓打たうよ花月夜
生死如是病苦また如是花が咲く
などやらむ世に目まとひと生れ出で
避けがたき寒さに坐りつづけをり
崖氷柱刀林地獄逆まに
深雪晴悲想非非想天までも
再の世を山とし生きむ駒ヶ岳の雪
雪山と降る白雪と消し合ひぬ
夢に舞ふ能美しや冬籠
冬山の倒れかかるを支え行く
代々江戸幕府所属の座付能役者の家の長男として生まれた松本たかしは5歳から能修行に専念、8歳で初舞台を踏むのだった。14歳の時肺尖カタルを患い、見舞いにきた父が置いていった『ホトトギス』を手にしたことから俳句に興味を持つようになった。以後は病に身を預けながらの俳諧の道を歩むことになる。
作品の格調は高く「たかし楽土」、「芸術上の貴公子」などとよばれる品位ある小世界を具象して伝統俳句の継承者の一人となったが、昭和31年2月に脳溢血に倒れた体が悪化、5月11日、強度の神経衰弱にかかって心臓麻痺により急逝した。遺句集となった『火明』の最後に置かれた〈避けがたき寒さに坐りつづけをり〉が絶句となった。
三浦半島の先端、北原白秋に〈雨はふるふる城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる〉と詠われた城ヶ島を見やって、時を忘れたような港町、生彩を失った商店街から細い急な階段を上った先に浮島のような浄土があった。
本堂前には大きな蘇鉄がすっくりと直立して、淡い海が見える。大橋が見える。天気は上々、西の方角に向き合えば華麗な富士も見えるはずだ。
山門の右、雪にも似た白砂の上に「たかし」と刻された自然石の碑、背面の石塀にはめ込まれた銅板には〈宝珠不壊 蘇鉄の花の 秋に入る たかし〉とある。友人吉野秀雄の撰文にもあるとおり、三浦三崎の風光を酷愛した俳人、松本たかしの演能を彷彿させるような立ち姿の美しい碑であった。
|