桑原武夫 くわばら・たけお(1904—1988)


 

本名=桑原武夫(くわばら・たけお)
明治37年5月10日—昭和63年4月10日 
享年83歳(文声院綜誉峻照居士)
京都府京都市左京区黒谷町121 金戒光明寺東墓地(浄土宗)



仏文学者・評論家。福井県生。京都帝国大学卒。昭和23年京都大学教授。スタンダールやアランなどの研究・翻訳、日本文化に関する評論、俳句の『第二芸術』論争などで有名。62年文化勲章受章。『文学入門』『フランス革命の研究』『人間素描』などがある。







 私は自分のとるべき処置を考えるのが苦しくなって、ヨーロッパ人ならどうするか、と考えてみた。これはおよその見当がつく。あくまで子供を守ろうとはする。しかし、一たんそれが不可能、つまり子を救おうとすれば自分も逃れられぬ、子供をすてれば自分の助かる公算がある、とはっきり見さだめたならば、恐らくためらわずに、子供をみずから殺すであろう。愛する子供を奴隷におとしめてまで、その生命を保存しようとは決してすまい。日本人は生命を軽ろんじ、ヨーロッパ人はこれを惜しむというが、それは概念的ないい方で、危機においてみればかえって逆の出ることもある。子供と共に自殺する、これが多くの日本人のとる処置だろうが、ヨーロッパ人は自分の助かる公算のゼロのときのみ、そうするであろう。近代個人主義とはそういうものであろう。もちろん近代人は、かかる悲劇の発生を全力をつくして食いとめようと努力するだろう。(咏嘆的な日本人のように戦争を天変地異と同一視せぬのである。)しかし一たん悲劇に直面したら、救いうるかぎりの生命をすくい、救いえざるものを奴隷とはせぬであろう。中国の昔、飢饉のとき幼児を天秤棒の両端にぷらさげた籠にいれ、呼び売りしたと歴史に見えている。これがその反極である。生命の尊重とは何だろう。
私は秋の日ざしのさんさんと降る焼跡を、こんな感想をいだきつつ散歩し、いま机の前にもどった。心はたのしくないが、頭はいまさえている。こういう瞬間に、私をはぐらかすことなしに慰め、喜ばし、力づける文学がほしい。

(『事実と創作』断想)



 

 文化勲章を受けた翌年の昭和63年4月10日午前9時55分、急性肺炎のため、精神主義を著しく嫌悪した一代の行動的合理主義者は、入院先の京都大学胸部疾患研究所附属病院で逝った。
 現代俳句界を震撼させた「第二芸術論」は、瓦礫に覆われた戦後論壇に波動を伴った大きな刺激となって時代の一画を為した。桑原武夫をインターネットで検索するとほとんどが「第二芸術論」に関することばかりで、それ以外の言論は無かったかのように思ってしまう。
 すべての事柄において他の追随を許さぬ明確な判断、〈いさぎよいよいまでの透明さ〉を示して、多方面に文化的運動あるいは挑戦的評論を展開していった行動力に、私は少なからずたじろぎを覚えるのであった。



 

 京都の人々から「くろ谷さん」と呼ばれ、幕末、京都守護職として会津藩松平容保の本陣が置かれた浄土宗大本山金戒光明寺。時代劇の撮影によく使われているという山門脇で、子供達とキャッチボールをしていた塔頭の一つである常光寺住職(生前桑原武夫と昵懇であったと聞く)に氏の墓所を教えていただいた。
 寺の東側、急な石段の先にある「文殊の塔」をやりすごし、薄暗がりの小道を踏み分けていくと、鬱蒼とした木陰の下、竹垣で囲われた「桑原武夫/田鶴墓」は座していた。多弁家にして、かつて〈新京都学派〉と呼ばれた研究者達を束ね、〈猛獣使い〉と敬称された氏もこの深閑とした塋域に座しては、何ほどの術もなく、如何ともし難いものがあろう。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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