国木田独歩 くにきだ・どっぽ(1871—1908)


 

本名=国木田哲夫(くにきだ・てつお)
明治4年7月15日(新暦8月30日)—明治41年6月23日 
享年36歳(天真院独歩日哲居士)❖独歩忌 
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種ロ16号16側 



詩人・小説家。千葉県生。東京専門学校(現・早稲田大学)中退。明治30年『独歩吟』を発表、注目された。34年短編集『武蔵野』を刊行。38年『独歩集』、39年創作集『運命』などで評価された。『牛肉と馬鈴薯』『富岡先生』『正直者』『運命論者』『竹の木戸』などがある。







 「要するに僕は絶えず人生の問題に苦しむでゐながら又た自己将来の大望に壓せられて自分で苦しんでゐる不幸な男である。」
 「そこで僕は今夜のやうな晩に獨り夜更て燈に向つてゐると此生の孤立を感じて堪へ難いほどの哀情を催ほして来る。その時僕の主我の角がぼきり折れて了つて、何んだか人懐かしくなつて来る。色々の古い事や友の上を考へだす。其時油然として僕の心に浮かむで束来るのは則ち此等の人々である。さうでない、此等の人々を見た時の周圍の光景の裡に立つ此等の人々である。我れと他と何の相違があるか、皆な是れ此生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行路を辿り、相携へて無窮の天に帰る者ではないか、といふやうな感が心の底から起つて来て我知らず涙が頬をつたふことがある。其時ぱ實に我もなければ他もない、たゞ誰れも彼れも懐かしくつて忍ばれて来る。」
 「僕は其時ほど心の平穏を感ずることはない、其時ほど自由を感ずることはない、其時ほど名利競争の俗念消えて總ての物に對する同情の念の深い時はない。」
                                                           
(忘れえぬ人々)



 

 明治41年6月、茅ヶ崎の結核療養所、南湖院には肺結核でやせ衰えた身を横たえる自然主義文学の先駆者たる国木田独歩がいた。2日夜、コップ二杯にも余る突然の喀血をし、いよいよ衰弱はすすんでいった。
 ——〈死とは自覚の滅する事ならずや。(中略)死に近づくに連れて人は生前の自覚を次第に薄らがす者なり。然る以上、死は即ち生存の自覚の停止ならずや〉——。
 前年末に自記した一節。病室にあって、なお野に憧れ、あるいは寂しさに涙して聞いた波音は、36歳の独歩の何心にか滲み入り、23日午後8時40分、遂には天国に逝ったのだった。梅雨の晴れた翌日、田舎家の軒下には野花で飾った棺がぽつんと置かれてあった。



 

 去ること90余年、6月29日、激しい雨脚と読経が響く中、青山原の墓穴に遺骨はおろされ、故人の著書、『武蔵野』、『独歩吟』、『独歩集』、『運命』、『涛声』の五巻を収めた陶器とともに埋葬された。
 〈武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことによって始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処に吾らを満足さするものがある〉と書いた独歩。
今は遠い、遙か武蔵野からやってきた新緑なる五月の風薫が漂う一坪ばかりの塋域には草刈り仕事を終えた墓守の引くリヤカーが、がさがさ、ごとごと、賑わしい音を残して通り過ぎていく 。
 ——〈吾は一個、人間なり〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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