九鬼周造 くき・しゅうぞう(1888—1941)


 

本名=九鬼周造(くき・しゅうぞう)
明治21年2月15日—昭和16年5月6日 
享年53歳(文恭院徹誉周達明心居士)
京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町30 法然院(浄土宗)




哲学者。東京府生。東京帝国大学卒。九鬼男爵家が生家。大正10年から昭和4年までヨーロッパに留学し、哲学を研究した。帰国後、京都帝国大学講師、5年『「いき」の構造』を刊行し、10年教授に就任。ほかに『偶然性の問題』『人間と実存』や詩歌集『巴里心景』などがある。







 「いき」は安価なる現実の提立を無視し、実生活に大胆なる括弧を施し、超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自律的遊戯をしている。一言にしていえば、媚態のための媚態である。恋の真剣と妄執とは、その現実性とその非可能性によって「いき」の存在に悖る。「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。「月の漏るより闇がよい」というのは恋に迷った暗がりの心である。「月がよいとの言草」がすなわち恋人にとっては腹の立つ「粋な心」である。「粋な浮世を恋ゆえに野暮にくらすも心から」というときも、恋の現実的必然性と、「いき」の超越的可能性との対峙が明示されている。「粋と云はれて浮いた同士」が「つひ岡惚の浮気から」いつしか恬淡洒脱の心を失って行った場合には「またいとしさが弥増して、深く鳴子の野暮らしい」ことを託たねばならない。「蓮の浮気は一寸惚れ」という時は未だ「いき」の領域にいた。「野暮な事ぢやが比翼紋、離れぬ中」となった時には既に「いき」の境地を遠く去っている。そうして「意気なお方につり合ぬ、野暮なやの字の屋敷者」という皮肉な嘲笑を甘んじて受けなければならぬ。およそ「胸の煙は瓦焼く竈にまさる」のは「粋な小梅の名にも似ぬ」のである。

(「いき」の構造)



 

 父は男爵。母は祇園の出身、花柳界の出であった。妊娠中に父の部下であった岡倉覚三(天心)と恋愛関係になり、周造を出産後に離縁された。その生からくるのかどうか、祇園や深川など花柳界によく馴染み、俗曲にも通じた。江戸の流れをくむ「粋」と留学で身につけた西洋の文化や風土に培われた周造の哲学、天野貞祐や西田幾多郎に誘われ教鞭をとった京都の水によくあった。「いき」や「風流」の美学、「存在」「偶然」に対するこだわり、日本詩における「押韻」のことなど、〈京都学派〉のスター学者となった周造であったが、昭和16年5月6日午後11時50分、入院中の京都府立医科大学病院で腹膜炎のため、偶然に存在したこの世から、もうひとつの偶然のほうに去って逝った。



 

 〈実際我々はアメリカ人でもフランス人でもエチオピア人でも印度人でも支那人でもその他のいずれの国人でもあり得たのである。我々が日本人であるということは偶然である。我々はまた虫でも鳥でも獣でもあり得たのである。虫でもなく鳥でもなく獣でもなく人間であることは偶然である〉と観じた九鬼周造。花生けに白水仙とピンクのアセビ、上段崖際の椿の古木から降り散った赤い椿の花弁が苔生した庭に散らばっている西田幾多郎揮毫の「九鬼家之墓」、側面に西田訳ゲーテの『さすらい人の夜の歌』の一節〈見はるかす山ゝの頂 梢には風も動かす鳥も鳴かす まてしはしやかて汝も休らはん〉が刻まれている。姦しく杉木の間をひっきりなしに飛び移っていた四十雀が二、三羽急旋回して谷を下っていった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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