黒岩重吾 くろいわ・じゅうご(1924—2003)


 

本名=黒岩重吾(くろいわ・じゅうご)
大正13年2月25日—平成15年3月7日 
享年七九歳(至誠院瑞空興文夢想大居士) 
和歌山県和歌山市道場町1–1 海善寺(西山浄土宗)




小説家。大阪府生。同志社大学卒。在学中に学徒出陣。ソ満国境で終戦を迎え、復員後さまざまな職種を彷徨いながら小説を書いた。昭和34年に同人誌『近代説話』に参加。36年『背徳のメス』で直木賞受賞し、社会派の推理作家として活躍する。ほかに『天の川の太陽』『日と影の王子』などがある。







 月は大阪の真上にあった。渓谷の青い岩のような雲が、月の回りを囲んでいた。
 寝棺の上に十字架を刻んだような墓石、真四角な石に死と生涯を書いただけのもの、綺麗な円錐形の墓石。多種多様だった。形は違っていたが、それぞれの石には、故人の死を、生きている人々に表現する、なにかの文字が刻まれていた。
 墓石は月の光に青く煙っていた。墓地の下には修法ガ原の池があった。夜は外人墓地から、冬の風は修法ガ原の池から、生まれたようであった。
 「僕はこの外人墓地がすごく好きだ。前の病院にいた時、僕はよく一人でこのあたりを散策したものだよ」
 と植は松の木に手をかけながら云った。伊津子はこの時、植の過去を知らなかったことに気づいた。
 そういえば植は、自分の過去を病院の誰にも喋っていない。
 伊津子も植にならい、松の木に手をかけ、外人墓地を眺めた。厳しいまでの静寂が、伊津子の苛立ちを次第に消していった。
 「静か過ぎますわ、生きているのが、たまらないくらい。先生がこんな場所を好きだとは、意外でしたわ……」
 「そう、確かに静か過ぎる。僕がよくここに来たのは、生きるのがいやになったある時期です。その当時、僕にとって、死んでもこのような安息がある、ということは、一つのなぐさめだった。だが、毎日来て眺めているうち、この優美な静寂が、なぜか空しいものに思えてきた。どんなに醜い生活を送っていても、死ぬことによって、このような美しい安息に化粧される。それはしょせん、死に対する恐怖のごまかしではないか、と思うようになったんですよ。その時僕は、墓石は要らないから、思いきり生きてやろうと決心した」

(背徳のメス)



 

 復員後はさまざまな職を転々とし、無頼の生活を送っていた28歳のとき、全身麻痺するという灰白質脊髄炎を患い、四年近い入院生活を送ることになったが、この凄惨な体験が作家へとすすむ一筋の道となったのだった。多額の借財を抱え、一時は釜ヶ崎のドヤ街に移り住んだこともあった。水道業界の新聞社に勤め、夜はナイトクラブで働きながら執筆をつづけ、昭和36年『背徳のメス』で直木賞を受賞、その苦労は報われた。与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」に「妻をめとらば才たけて みめ美わしく情けある 友をえらばば書を読みて 六分の侠気四分の熱」というくだりがあって、黒岩重吾は酔うと好んで歌っていたというが、熱血に溢れた作家人生も、平成15年3月7日午後1時20分、肝不全のため兵庫県西宮市の病院で終止符が打たれた。


 

 連日の猛暑日。思考能力を奪ってしまうような炎天下の中、和歌山駅から港へ向かって伸びるけやき大通りを、樹影に守られながらゆっくりと歩いて行く。和歌山城を過ぎてすぐに、寺院の寄り集まった区域がある。その一角、和歌山西国三十三箇所第28番、玉降山海善寺の東墓地。紀州藩お抱え儒者、李梅渓・李真栄の墓所手前左の砂地庭に昭和19年5月に父大助が建てた廻船問屋だった蛮勇の祖父も眠る「黒岩家代々之墓」、父やクリスチャンの母、黒岩重吾、紆余曲折の上結ばれた妻秀子も埋骨されている。どん底の時代、大阪西成のスラム街の旅館の壁に鉛筆で書いた「生きることを、悲しく思う時、思いきり、生きたい。」という生命の叫びこそ、この灼熱の墓庭にはふさわしい。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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