倉田百三 くらた・ひゃくぞう(1891—1943)


 

本名=倉田百三(くらた・ひゃくぞう)
明治24年2月23日—昭和18年2月12日 
享年51歳(戚戚院釈西行水楽居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園23区1種26側2番 



劇作家・評論家。広島県生。旧制第一高等学校(現・東京大学)中退。大正4年西田天香の「一燈園」に入り信仰生活をおくる。5年千家元麿らと同人誌『生命の川』を創刊。同年戯曲『出家とその弟子』で注目された。9年戯曲『歌はぬ人』、10年『愛と認識との出発』を発表。『父の心配』『超克』などがある。







 それは『善の研究』であった。私は何心なくその序文を読みはじめた。しばらくして、私の瞳は活字の上に釘付けにされた。
 見よ!
 『個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるという考えから独我論を脱することが出来た』と、ありありと鮮かに活字に書いてあるではないか。独我論を脱することが出来た?!この数文字が私の網膜に焦げ付くほどに強く映った。
 私は心臓の鼓動が止まるかと思った。私は喜びでもない悲しみでもない一種の静的な緊張に胸が一ぱいになって、それから先きがどうしても読めなかった。私は書物を閉じて机の前に凝っと坐っていた。涙がひとりでに頬を伝った。
 私は本をふところに入れて寮を出た。珍らしく風の落ちた静かな晩方であった。私は何とも云えない一種の気持ちを守りながら、街から街を歩き廻った。その夜、蝋燭を灯して私は、この驚くべき書物を読んだ。電光のような早さで一度読んだ。何だかむつかしくてよく解らなかったけれど、その深味のある独創的な、直観的な思想に私は魅せられてしまった。その認識論は、私の思想を根底より覆すに違いない。そして私を新しい明るいフィールドに導くに相違ないと思った。この時、私はものしずかなる形而上学的空気につつまれて,柔らかく溶けゆく私自身を感した。
                                                         
(愛と認識との出発)



 

 旧制第一高等学校時代に肺結核を発症して以来、病がちの体を労っての信仰生活であった。キリスト教や仏教、神道などによって思想を深めたが、晩年には親鸞研究を通して国家主義に傾いていった。
 昭和18年2月12日、寒風の吹きすさぶ朝、肋骨カリエスのため病臥を続けた百三は幽界に旅立った。〈死はすべてのものを浄めてくれる。わしがこの世にいる間に結んだ恨みも、つくったあやまちもみんな、ひとつのかなしい、とむらいのここちで和らげてゆるされるであろう。墓場に生えしげる草はきたない記憶を埋めてしまうであろう〉とロマン・ロランが絶賛した『出家とその弟子』の親鸞は告げたが、百三自身の死によって浄められたものは何だったのだろうか。



 

 親鸞の臨終に際して描いた荘厳な西方浄土は、宗教的人道主義文学といわれる倉田百三の作品に溶沸してたちのぼっている。
 百三と妻直子の眠る「倉田百三之墓」に、揺るぎない西陽は樹葉を避けて射し込んでくる。墓前に『出家とその弟子』より採った「筆折れていのち絶えなむ時さへやいやさか言はむすめらみことに」を刻んだ碑文と石灯籠一対、青梅の生っている樹、墓誌、『愛と認識の出発』にある絹子(最初の妻・神田はる)の慎ましい墓。すべての記憶を埋め込んだ霊域の踏石の隙間から喜々とした瑞々しい若笹が伸びている——。
 また広島県比婆郡庄原村(現・庄原市本町)の倉田家墓所には分骨が埋葬されている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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